水木先生関連テレビ出演

水木先生が亡くなって、新潮45の追悼文を書き終わって一息ついていたら(新潮45の次号に出ます)今度はNHKが番組に出ろということで、総合の朝八時代の番組に出ることになりました。


なんたらかんたらニュース深読みとかいう番組(今調べたら「週間ニュース深読み」という番組でした。関係者の皆さんすみません)、12月12日の朝8時過ぎにやる番組みたいです。


僕はその時間起きていたことは全くなく、たまたま起きていれば原稿書いてるか釣りに行ってるかなんで、どんな番組かさっぱりわかりませんが、まあ水木先生の追悼だからねえ。


うまくいくとはとても思いませんが、25年前に教育番組の司会者をやっていたことを思い出して、何とかがんばろうと思います。


そんなわけで水木関係の仕事が殺到して死にそうです。


これまで書き溜めたやつを本にしろというのもあるし、新しく評伝書いてという注文もありまして、だいじょうぶか、俺。


ただ水木原理主義者としては、水木サンの本当の主張を伝える機会なので、がんばるしかない。


そんなわけで死にそうですが、なんとかがんばります。暇な人は見てください(いや、恥ずかしいので見ないでください、かな)。


とにかくテレビは苦手です。水木先生のかわりに、「土人」とか「キチガイ」とか言ってしまいそうな自分が怖いです。


でも水木先生の追悼なんだし、もうテレビなんか出たくもないんだけど、頑張るしかない。


でもお金は入るわけで、水木先生は死んでも偉大です。死んでからもお世話になるとはなあ。


今のところ、まだ夢には出てきてません。お願いだから出てきてよ。そうしたら生前のように「テレビなんかは断りなさい、キリがないですから」と言うのかもね。


とにかく会いたいから、夢で会いましょう、水木先生。

水木先生

昨日水木しげる先生が亡くなって、いろんな記憶が走馬灯のように押し寄せてきて困っていました。
そうしたら新潮45が長い追悼エッセイを書かせてくれるということで、とてもありがたくおもいました。


ほんと、えらそうなことは一言も言わない人でした。


なんの虚飾もない人で、本音の人。


自分の興味のあることには、子供みたいに迫っていく人。そして興味のないことは、あっという間に忘れる人。『驚くべき記憶力と、驚くべき忘却力が同居する』と週刊SPA!がコピーをつけましたが、まさにそのとおりの人でした。


戦争に行って、腕が一本なくなって、そんな人生における圧倒的な経験値があるので、僕のちっぽけな悩みなんか一緒にいるだけでいつのまにかほどけてしまう人でした。


ただ話しているだけでも抱腹絶倒の人なのに、その上いっぱい一緒に外国に旅をして、げらげら笑うような事件がたくさんあって、一緒に妖怪探検の本を作って、2005年には、水木さんの語録「本日の水木サン」を作りました。あんなに楽しい仕事はなかったな。


「人間を超えた見えないものに、どうしたら見える形を与えられるか」という同じ問題を共有した大先輩。
水木さんはそれを妖怪を描くということでやり、僕は人間の生活を描くということでやろうとしていました。


「ではまた、あの世で」
これが「本日の水木サン」の最後のページのセリフです。
このセリフがこれほど似合う人もいないでしょう。


思い出は尽きません。


大好きでした。ありがとうございました。


またあの世で、そして夢で会いましょう、先生。

核という呪いー南相馬編(3)


3


「男が弱い。父さんたちが圧倒的に弱い。
 避難先で夫と別れて母子で南相馬に帰ってくる。そんな例をいくつも見ました」
 僕はこれまで、それは「核という呪い」の「人と人の間を引き裂く」という性質のためであると思っていた。もちろんそうした側面もあるはずだが、近藤先生には、若い父親たちが歯痒く見えてならなかったようだ。
「とにかく家族を守ろうとしない。昼からパチンコ、酒。仕事を探さない、仕事をしようともしない。そのうち補償金で外で酒飲んで女ができる。父さんにあるまじき行為の連続なんです。
 その上家庭内で暴力を振るいだす。あるいは家族をまったく無視する。家族の問題は山積みでしょう。子供の教育をどうするか。避難所から出て、安全な場所で新しい生活を始めるのか、それとも南相馬に戻るのか。精神的に打撃を受けた祖父母をどうケアするか。ところが、何一つ対峙しようとせずにゴロゴロしている。
 父の権威の失墜なんです。
 だから、お母さんたちが見切りをつけて、別れて南相馬に戻りたいというのはよくわかりますよ。そんな時は、ダメな父親だと早くわかってよかったね、と言います。それに子供が小さいうちなら、ダメな父親よりは新しい父親のほうがいい。
 ライオンと同じなんですよ。この原発事故で、女性の強さが引き立った。
 もちろん父親にしても苛酷な環境なんですよ。そこで『父さんがんばれよ』というワークショップをやったんです」
 南相馬は日本で唯一、市内が5箇所に分断された地域である。
 旧警戒区域(20キロ圏内)、計画的避難区域、特定避難推奨地点、旧緊急時避難準備区域、そして指定外の安全とされる区域。南相馬市内を生活基盤にしているといっても、このどこに自宅や職場、学校や親族、友人たちの家があるかというだけで、判断基準ががらりと変わってくる。非常に難しい地域だ。
「最終的に、避難して新しい土地で生活するのか、それとも現地で生きるのか、という決断をしなければいけない。しかし、どちらにするかを決めるのが難しい地域で、自己判断しかない。そこで、父が試される。
どちらで生きるにしても、大切なのは『どう前向きに生きるのか』ということ。避難して前向きに生きる人もいれば、現地に残って前向きに生きようとする人もいる。
 で、僕らにできるのは、現地で前向きに生きようとする人たちのために、生きられる環境を作り出すことではないかとおもったんです。
 そこで、父さんだけを集めてワークショップをやったんです。今、何かをやらなきゃいけない場面であることはわかっている。けれども、どう動いていいかわからない。これからどうしていくべきか。これを自分の言葉で表現する、というのが重要なんです。自分がやるんだ、という覚悟が必要なんですね。
 当時、除染に関しては行政はまだ決められない状況だった。しかし、子供たちと一緒に現地に残るということは、子供たちを被曝の危険にさらすことです。だから、南相馬に残った若い親たちは子供に対する罪悪感が大きかった。当然、行政がやることを待っていられない。行政がやってくれないなら、自分たちでやろうよ、ということになった。
まずは子供たちが通う園の施設をやりました。行政は入らなかった。ウチの職員や、いろんな人が集まってくれて、コンマ1でも下げるぞ、という気合で除染をした。
そうしたら実際に下がるわけです。保育園はOK。なら次は家だ。じゃあどうやってやるのか。最初のうちは僕らが中心になってやりました。三軒めから、父さんと母さんが主役で、特に父さんですね。父さんの背中を見せるプロジェクト。主役は父さんであり、われわれはそれをできるだけフォローする。これまで約20件の除染サポートをしてきました。土日に1件のペースですかね」
 ネットにアップされた動画でその除染の様子を見たが、近藤先生は先頭に立って奮戦していた。その背中は、言ってみれば南相馬の父親の背中の代表だった。この後ろに、母親や子供たちがついてくるのも無理はない。
 核という呪いは、強烈な「ケガレ」の意識を女性に与える。しかし、母性社会に育ったあいまいな夫は、いつまでも態度を決定しようとしない。ケガレに対峙しようとしない。それを子供を案ずる女性が振り切る、という形で離婚が起きる。これは福島中で、あるいは日本中で起こったことかもしれない。
近藤先生はその「ケガレ」に毅然として対峙した。この時、ケガレからの安心を求めていた女性や子供たちには、それは「ハライ」であると感じられたに違いない。だから、ハライを行う近藤先生は母親や職員、そして子供たちにこれほど慕われるのである。
高圧洗浄機を使い、懸命に除染する近藤先生の姿は凛としていて、まるで「核という呪い」を祓い、「安心」を作り出す神主のように見えた。

核という呪いー南相馬編(2)

                 2

南相馬の若い父親たちは、ちゃんと家族を守れるかどうか、今回試されちゃったんですよね。近藤先生は、そのために引き裂かれた夫婦を、結びつける活動をしているんです」
 堀先生がそう言って紹介してくれた人物がいた。
 よつば保育園副園長・近藤能之先生。通称ヨシユキ先生。
 イケメンである。
 背が高く体はがっしりとしていて、全体的な印象は若いころの闘莉王をやさしくしたような感じだ。
 3月5日、平成24年1月に開園したよつば乳児保育園西町園にお邪魔した。
 出入り口近くに大きな線量計が立っており「0.187μSV/h」という表示があったので少し安心した。この数値なら、福島第一原発から100キロ以上はなれた日立市にある我が家とほとんど変わらない。子供たちのことを考え、よほど徹底的に除染をしたのだろう。
 そのことを近藤先生に伝えると、
「そうですか。でも、これでも線量が高いと批判されることもあるんです」
と、少しさびしそうに言った。
 放射線量の判断が難しいところは、このレベルの線量であっても、誰も「絶対に安全である」とは言えないところにある。0.187マイクロというのは、日立市に住む僕の感覚から言えば少し安心できる数値である。が、原発事故以前の数値は0.045前後であったから、それを考えれば4倍以上になる。さらに、これを年間被曝量に直せば、法令で超えてはならないとされる限度量の1ミリシーベルトを軽く突破してしまう。さらにそれを、大人ではなく乳幼児が浴びることを、どう捉えるのか。
 むろん「ミスター100ミリシーベルト」山下教授からすれば歯牙にもかけない数値であろう。
 裁判所もほぼ同じ判断をする。なぜ僕がそう断言するかというと、JCO事故で被曝した僕の両親は一日のうちに約40ミリシーベルトの被曝をしたが、裁判所は2008年にそれを取るに足らない数値として切り捨てたからである。最高裁まで争ったが判断は変わらなかった。
 一方で、これまでの取材の印象からすると、現場に近い良心的な医師であればあるほど、低線量域の被曝の危険性に警鐘を鳴らすように思われる。
 学生時代から広島、長崎の被爆者の調査をし、原発被曝労働者の診断をしてきた阪南中央病院の村田三郎医師は、それまでの経験から数ミリシーベルトの低線量被曝でも免疫系の異常を引き起こすケースがあると主張している。村田医師が医学的意見書の作成した原発労働者の長尾光明氏は、約5ミリシーベルトの被曝によって多発性骨髄腫を発症したという労災認定を受けている。
 100ミリシーベルトから数ミリシーベルトまで。こうした学者間の見解の不一致は枚挙に暇がない。
国際的に見てもこうした事情は変わらない。たとえば、国連科学委員会は2013年5月31日、福島の原発事故について「健康に悪影響は確認できず、今後も起こるとは予想されない」という報告書を発表した。
政府は除染を進めて避難住民の帰還を促してきたが、除染計画が思うように進まず住民から強い批判を浴びてきた。6月1日付の日本経済新聞は「政府は健康影響がないとした報告を受けて除染などの計画を見直す方針だが、福島県内からは反発が出る可能性がある」としている。政府とすれば、安全であるならそれほど除染に予算を使いたくないというのが本音だろう。一方、自民党時代の原発推進政策に協力し、このような悲惨な目にあった住民からすれば、これほど理不尽な話はない。
一昔前なら国連機関の発表で多くの日本人が納得したのだろうが、ネット社会が進み、IAEAICRPなどの国際機関が原子力産業から出資してもらっているという事情が知れ渡った今では、「ああ、またやっているな」という程度の認識になってしまった。彼らにしたところで、「100ミリシーベルト以下の被曝では健康影響は出ない」と機械的に切り捨てているに過ぎないのだ。要するに、山下教授と同類である。
同様にネットの住民は一人の聞きなれない名前の研究者の報告を知ることになる。
ユーリ・バンダジェフスキー。ベラルーシ・ゴメリ医科大学初代学長。
ベラルーシのゴメリ州はチェルノブイリ原発事故の影響をもっとも強く受けた場所で、16万人以上の住民が避難している。2000年に僕がJCO事故の報告をするためベラルーシの国際学会に行った時も、関係者に「ゴメリの事情を知らない人はもぐりです」と言われ、事情を知らなかったので恥ずかしい思いをした記憶がある。
バンダジェフスキーはセシウム137の人体影響を明らかにするために、被曝死した患者の病理解剖を行い、臓器ごとにどれだけ影響が出ているかを調べた。まったく身もフタもない現地の医師ならではの研究であるが、その結果心臓をはじめとして、腎臓、肝臓、甲状腺などの内分泌臓器にセシウムがたまりやすく、障害が起こることを確認した。福島原発事故については次のようにコメントしている。
「日本の子供がセシウム137で体重キロあたり20−30ベクレルの内部被曝をしていると報道されたが、この事態は大変に深刻である。子供の体に入ったセシウムは心臓に凝縮されて心筋や血管の障害につながる。(全身平均で)1キロ当たり20−30ベクレルの放射能は、体外にあれば大きな危険はないが、心筋細胞はほとんど分裂しないため放射能が蓄積しやすい。子供の心臓の被曝量は全身平均の10倍以上になることがある」
これが現場の見方なのである。
ただでさえ「核物質で汚染されてる」というだけでどす黒い気分になっているというのに、われわれ素人にはどちらの言っている数値が客観的に正しいのか判別しようがない。逆に言えば、どちらの可能性もある、というわけで、それが心理的に効いてくる。人の心はこのようにして呪縛されていく。放射性物質、すなわち核はこのような意味で「呪術的」なのである。

園内はとびぬけて明るい雰囲気だった。これからお昼寝の時間ということだったが、僕たちが入っていくと「ヨシユキせんせーい」と子供たちが集まってくる。僕に挨拶したり笑いかけてきたりする子供も多い。とても開放的で、ひとなつこい。近藤先生の人柄が園児たちにも現れているようだった。
原発事故のあと、南相馬からは小さな子供が次々と消えていった。そうした状況を受けて、多くの保育園関係者が避難を選択する中で、近藤先生は一貫して地元で保育の仕事を続けてきた人である。
事故直後には、絵本とお菓子を持って、園児たちが避難している避難所を自転車で回った。
「ひどいもんでした。大人のこころがダメージを受けていた。子供は大人の気持ちの影響を受けやすいですから、避難所によって違いますが、子供たちの表情はものすごく暗かった。
 とにかくうるさくできないでしょう。子供のいる環境じゃないんです。避難所では子供連れは肩身が狭いんです。お年寄りから『うるさい』と言われるし、親にも『がまんしなさい』と言われ、ストレスになる。子供がかわいそうですから、甘やかしも始まってしまう。赤ちゃん返りも多かった。
 保育という集団の場から離れることによって、親とのコミュニケーションに戻ってしまうんです。集団でいれば、たとえば順番を守るというガマンが必要になる。自分より少し小さい子がいれば面倒を見なければならない。子供同士で主義主張が違えばけんかもする。けんかに勝つ、負ける、怒られる。なぜこんなことになるのか、子供なりに真剣に考えるんです。そして、夢中になって遊ぶ。これが子供の成長につながっていきます。
 この過程で五感が刺激を受けます。体もたっぷり動かします。汗もいっぱいかく。それが生活にリズムを与えるんです。肥満も解消される。
 ところが、避難所で大人と向き合う生活をしていると、しゃべらない子が多くなる。食べ物はジュースやお菓子ばかりで、肥満になる。僕は避難所でゲームがプロみたいにうまい幼児をいっぱい見てきましたね。体を動かさないから新陳代謝が進まない。無表情になって、突然大声を出したり、暴力的、攻撃的になる。
 だから、子供が園に戻ってきて、すごいしゃべるようになったと感謝されることが多いですね。もっと早く戻って来ればよかったって。
 ただ僕は、戻っておいでよ、って一回も言ったことはないんです。戻ってくるなら安心感を作れるように一緒にがんばろう、って言うことはあります」
 しかし、近藤先生は言う。
「それでも子供たちはタフです」
 ふーむ、それは、誰に比べて?

核という呪いー南相馬編(1)

                   (1)
どういうわけか南相馬に来ると酒を飲んでいる。これは、去年からインタビューをするたびに「ターキー」という料理のおいしい洋風居酒屋に入り浸ったためであろう。
今回もターキーを待ち合わせ場所にしていたのだが、なんとパーティーで貸切であった。南相馬の寒空の下、入り口付近でぽつんと待っていたインタビュイーの堀先生は、しきりに調査不足を詫びると、近くのイタリアン・レストランに連れて行ってくれた。
昨夏以来の再会を祝し、まずはビールで乾杯。
堀有伸医師は2012年4月から南相馬市の雲雀ケ丘病院に勤務する精神科医である。
堀先生は昨年から「みんなの隣組」という団体を組織し、地域の人たちと毎朝ラジオ体操をやり、その他おさんぽ会、読書会などを企画してきた。ラジオ体操と自殺防止というのが僕の頭の中でうまくつながらなかったのだが、「朝イチで、朝の光を浴びて運動する。それがいいんです」とラジオ体操の効用をとくとくと説かれると、こんなにいいことはないんじゃないかと思えてくるから不思議である。
その後ラジオ体操はどうなりましたか、とたずねると、
「いやあ、一月の途中で雪が積もって力尽きました。雪国の冬を甘く見てました」
と言って、堀先生は破顔された。
近況を聞く。
「お年よりは元に戻りたいんです。生まれ育った土地との一体感が非常に強いんですね。
で、働き盛りはこの南相馬をがんばって盛り上げていきたいと思っている。一方で、口には出しませんが、ここに5年〜10年根を張ってやっていって本当に大丈夫か、という不安を持っている。
 若い世代は数が減りましたね。きれいに若いほど戻ってこない。10年〜20年腰をすえてここでがんばれるか、と考えた末に出した結論でしょうね。
 一方で、放射能のことは気にする人が減りました。忘れやすすぎるというか、あまり急に油断するのはかえって心配なんですがね。むしろ意識は、補償や仕事など、経済的なことに向いていますね。
母親はどうしても子供のことが心配ですから、不安を訴えると『そんなこと言うな』とまわりから言われてしまう。町を盛り上げないと若い人が帰ってこないですから、線量が高くて不安だと言うことはマイナス材料になるんです。そんなわけで子供を持つ女性は、不安や心配で煮詰まって、つらい。
 お年よりは、子供や孫が離れていってさびしいんです。この間も、ギリギリまでがんばってたおばあちゃんが、息子夫婦が孫をつれて他所へ行ってしまったら、うつを発症してしまった。
 全部の世代がつらいんですね。
 勤労世代、特に中高年の男性は、頭数が減った分仕事が増えましたから、これはキツイです。役所の人なんて、自分も避難しているのに、避難している人の世話をしている。休む暇も、週末家族と遊ぶ暇もない。その上この状況がいつ終わるのか、先が見えない。うつが増えるわけですよ。
 それから、賠償金の格差というのもあります。
 南相馬は30キロ圏の内と外に別れていますが、大体は同じような体験をしてるんですよ。同じ思いを持っている。ところが30キロ圏内の人はお金をもらってますから、圏内の人が『つらい』と言うと、圏外の人は『なに言ってんだ。金貰ってんだろう』ということになります。しかも、やることがないんで、酒やパチンコにお金を使うと『バカなお金の使い方をして』と、また非難される」
 核という呪いの、人と人の間を引き裂くという性質が如実に現れている。
「分断ということで言えば、震災直後に短期避難をして、南相馬に戻ってきている人がいます。立派な判断だと思うんですが、ここでずっと頑張っていた人からすれば『お前一回逃げただろう』ということになってしまう。そこには日本的ナルシシズムの問題があると思います」
 2011年8月、堀先生は「うつ病と日本的ナルシシズムについて」(臨床精神病理第32巻2号)という論文の中で「日本的ナルシシズム」という考えを明らかにした。
 僕は専門学者ではないので雑駁な紹介になってしまうが、僕が理解した限りでは、それおよそ次のようなものである。
 堀先生はまずうつ病が悪化していく4つの例を提示する。共通しているのは彼らがいずれも自分の所属する会社や組織と一体化して献身的に働き、一時は周囲から高く評価されていたということである。
その後、たとえば管理職になるという形で、現場と一体化するのではなく管理するという立場に立ったことをきっかけに、それが心労になってうつを発症してしまう。ところが状況が変化し、医師からも職場から距離をとって体調を管理するよう言われているにもかかわらず、以前と同じように献身的に働こうとするのである。結局そのことで患者は次第に消耗し、周囲からの評価も下落し、症状も悪化してしまう。
 堀先生はこうした傾向を「自己愛的同一化」と呼びんでいる。このように、周囲が「ゆっくり静養してよい」というメッセージを発しているのに、それを無視してしまう理由について、
「患者たちは『自己犠牲的に所属集団のために献身的に自分が努力していること』、および『その努力によって所属集団が支えられていること』といった実感が失われることに抵抗していたと考えられる」
と述べる。そして、所属集団に情緒的に巻き込まれてしまうこうした傾向は日本文化の特徴でもあるとして、ルース・ベネディクト丸山真男、中根千枝、川島武宣木村敏加藤周一中村元らの説を紹介。これらの学者が、
「日本社会にはその成員に具体的な所属集団の活動に徹底的に関与することを求める社会的な圧力が存在しており、その活動内容には理論的な批判や反省が与えられにくい」
と論じていることから、堀先生は日本人のこうした心的傾向を「日本的ナルシシズム」と名づけ、精神分析的な考察を加えた上で、注意を促している。
 南相馬の復興でも、復興のため地域と一体になって献身的に頑張ってきた人から見れば、避難した人は思わず批判したくなるのだろう。逆に、一度避難してから戻ってきた人は、何らかの負い目を感じざるを得なくなる。しかしその結果自分の限界を超えて仕事を続けていれば、いつかは消耗し切ってブレイクダウンするのは目に見えている。
 堀先生は、必死に地元のために働いてきた人も、避難したといって負い目に感じてしまう人も共通の心性を持っていて、それに「日本的ナルシシズム」という名前をつけたのである。そして、組織に情緒的に巻き込まれてしまえば、結局潰れるのは自分なのだから、適切な距離を保つよう注意を促しているのである。
 これは、いわゆる「燃え尽き症候群」や中間管理職の自殺に見られるように、日本社会に広く見られる現象であろう。福島の場合は「核という呪い」がそれにさらに拍車をかける。
 一方で、先の集会でも指摘されていたが、被害は続いており、有効な解決策が取られているとも思えないのに、ここのところ福島に興味をなくしたかに見えるメディアや政治をどう見るか。
「私は北山修先生を尊敬しているんですが、先生の理論に『見るなの禁止』があります。日本神話で、イザナキが死んだイザナミを求めて黄泉の国まで会いに行く。イザナミに『見ないで』と言われたにもかかわらず、強引にその姿を見たイザナキは、妻が腐乱死体になっていたので驚いて逃げちゃった。その結果『すまない』という、いつまでも消えない罪悪感を抱くことになってしまう。これは『鶴女房』などの日本の説話にも共通して見られる構造です。
 でも、そこに踏みとどまって妻と話し合えば、別の展開があったかもしれないじゃないですか。日本の男はそこに踏みとどまれないんです。福島を見続けられない。その結果、現に存在するものを『なかったこと』にする。否認の構造ですね。
 でもこれは、ある意味でチャンスなんです。日本の東京に近いところでこういうことをやって、しかも解決しない。それを世界の中で注目し続ける人がいるわけです。日本人の精神的な弱点が、世界中にさらされ続ける。その苦痛は、逆にそうした精神性を乗り越えるチャンスでもあるわけです。試練だと思って、悩んでくれればいいんです。忘れたふりをしても、借金は増え続けるだけですから」
 日本は、大きな傷口を開けて立ちすくんでいる。
 自公政権は、それを丸ごと否認している。
 そして借金は増え続ける。

避難者の41%がPTSDを抱えている恐れがある

5月27日にNHKEテレ・ハートネットTVで「避難者の41%がPTSDを抱えている恐れがある」という報道がありました。
これはこの冬に行われたNHK早稲田大学の16000人の避難者に対するアンケートの結果を分析したものです。
NHKの推定では、福島県の避難者は今年4月時点で11万5000人あまり。その4割以上というのだから、恐ろしい数です。しかし、僕は茨城県北部に住んでいますが、この周辺にも苦しんでいらっしゃる人はおられます。避難者に限定せず、さらに福島県外のことも考えると、福島原発事故関連のPTSD罹患者の数はますます膨大になるのではないでしょうか。
原発事故以降、母がJCO臨界事故でPTSDを罹患した経験から、僕はこれまでこのブログでも、またさまざまなメデイアを通して、原発事故のこころの被害について書いてきました。しかし僕が追いうるのはあくまで個別の事例だけですから、このようなマクロな視座からの発表はとても参考になりました。
特に興味深いのは、調査・分析に当たった早稲田大学准教授の辻内琢也氏のコメントにある次の3点でした。


1.「帰還困難区域に住んでいた方たちのストレスが高いというのはこれまでの調査でわかっていましたが、区域外避難、いわゆる「自主避難」をしている方たちも帰還困難区域の方たちに匹敵するほどの高いストレス状態にあるということが今回の調査でわかりました。これは非常に大きな発見で、絶対に対処しないといけない大きな課題が見えてしまったと言えるでしょう。」


2.「一般的なPTSDは、戦争や事故などといった一回性の激しいトラウマ体験が原因となる「急性単発型」と、虐待のように繰り返しトラウマ体験にさらされる「慢性反復型」に分けられるのですが、今回の福島の場合はそれらが組み合わさった型だというふうに私は仮説を立てています。」


3.「福島の問題はもはや過去の出来事のように風化にさらされていますが、この問題は全く終わっていません。だけど今、住宅の問題だったり、精神的な慰謝料だったり、賠償だったりが次々と打ち切られようとしています。これは本当に危機的な状況です。
現在、原発の再稼働が各地域で始まろうとしていますが、もし事故が起きたらきちんと対処しますよ、面倒を見ますよということをしっかり国民に伝えていかないと、再稼働に対する大きな不安は除けないと思うんですよね。せめて既に起きた事故に対してはきちんと補償することを示してほしい。」


それぞれ大きな論点ですが、僕が最も気にかかったのは3で、これから立ち直ろうとする最も重要な時期に、自主避難者に対する住宅の支援の打ち切りが検討されるなど、国の援助の手が引いていくということです。



僕自身の経験を思い返していくと、1999年9月の事故直後から母の調子が悪くなり、11月には内科に入院。翌2000年秋に精神科に入院。冬には父の体調も悪くなり入院。手伝っていた父の工場も二人が倒れてしまっては閉鎖せざるを得なくなり、2001年に廃業。そんなわけで、事故後3年ぐらいは次から次へと起こってくる事件に翻弄され、どうすればいいのかビジョンを描くこともままならなかったです。
個人的にも、ライターとして締め切りというハードルを飛び越えながら、親のケアや臨界事故被害者の会の事務局仕事がありました。2002年に父がJCOに対する損害賠償の訴訟を起こしてからはその資料を作る作業に追われ、事故後4年目というと精神的にも経済的にも非常にハードだったことを思い出します。
まあ僕のような事例は特殊ケースでしょうが、番組では、事故後放射線に対する意識の違いなどから離婚せざるを得なくなった女性が、母子家庭を切り盛りする中で経済的にも精神的にもたいへんな思いをしているケースが紹介されていました。アンケートでは、震災前より家族関係が悪化したという人は、29%に上ったということです。
これは本当に深刻な問題で、僕は何度も書いていますが、原子力事故による被害、すなわち「核という呪い」は、人と人との間を引き裂く、という性質を持っているのです。



このことに触発され、明日から、南相馬で行った取材の中で、お蔵入りになっていたものをこちらで紹介しようと思います。取材したのは2年前、2013年のことです。

さらば、ヘイト本!

本日、『さらば、ヘイト本!』(ころから)が出版されます。

このなかで、あの『ガロ』の青林堂が、なぜ元在特会会長桜井誠の『大嫌韓時代』を出版するようなヘイト出版社になってしまったのか、というルポを書きました。結局のところ、分裂後の青林堂を入手した蟹江という社長が、オタクでネトウヨだった、ということに尽きるのですが、「オタクとは何か?」を書き続けてきた僕にとってはなかなか考えさせられる取材でした。ご興味がおありの方は是非。