綾波萌え、ハルヒ萌え

ハルヒのポストエヴァ問題ですが、このブログのテーマである萌えという問題に即して考えるとどうなるのでしょうか。


まあ僕は綾波萌えなわけですが、はてなの「アヤナミスト」のところに堂々と名前が挙げられ「権威」とされていたのには参りました。並み居る本格派オタクの綾波萌えの皆さんに比べれば、僕なんかぜんぜんたいしたもんじゃないですから。とても権威なんてモンじゃないです。滝本竜彦君にもとてもかないません。脳内レイもいないし。


庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオンのなかで、僕は綾波を「オウムの信者の女の子」に例えています。とくに前半の綾波ですね。固い殻のような心を持って、ただゲンドウというグルにだけ心を開く少女。まあそういう意味でした。


そして今回、僕は涼宮ハルヒを、くしくも「麻原彰晃に似ている」と書いたわけです。綾波VSハルヒは信者VSグルという関係なのか。人はいったい信者とグルのどちらに萌えるのか。ははは、そんなのその人しだいですよねえ。


さて、エヴァ前半、信者的であった綾波ですが、それはシンジらとの交流によって徐々に変化していきます。彼女は自分を捕らえているニヒリズムの根源にグルがいることに気づき始める。そして彼女なりのニヒリズムの超克の方法を模索するのです。行き着いたのは、グルイズムから離れ、自分の気持ちに正直になるという地点でした。貞本版エヴァでは、二人目の死の直前、自分がいかに人とのつながりというものを求めていたかと気づく(まさに覚醒、という描写でした)綾波が描かれており、感動的です。そして劇場版では、綾波は「碇君が呼んでいる」というセリフとともにグルに別れをつげ、シンジの元に向かいます。このように綾波が少しずつ人として覚醒し自立していくさまが、綾波萌えとしてはたまらないものであり、エヴァという作品の魅力にもなっています。


ハルヒはどうか。ハルヒも苦しんでいる。世界はあまりにも退屈で、自分はあまりにもちっぽけに思える。しかし彼女はグル体質ですから、そのニヒリズムを自らの手で解決していきます。キョンのタイムリーな示唆があったとはいえ、自分で「SOS団」を作ってしまうのがまたグル体質。そういう意味では、綾波と違って、ハルヒははじめから自立しているし、覚醒しているともいえるでしょう。


ハルヒの魅力は、ニヒリズムを自らの手で解決していくときに、どんなにみっともなくても恥ずかしいことでも、ありとあらゆる方法でトライし、必死にそれに取り組みむところでしょう。この辺で中途半端なグルは妥協してしまう。ハルヒは立派な「あがく女」で、僕の萌えポイントはそこにあります。だから12話のハルヒのあがきがいいわけです。ハルヒに比べると、麻原はあがき方が足りない。もっときちんとあがけば、あんなくだらない結末は迎えなかったのに。まあこれは余談ですが。


このように見ていくと、綾波への萌えと、ハルヒへの萌えは相当異種であるように思える。しかし本当にそうなんだろうか。ということでこの考察は続きます。


ははは、しかし二人とも「まったり」とはおよそ遠い地点にいますね。