オタクとは誰か?―水木しげる先生の場合(2)

去年『本日の水木サン』という水木しげる語録を作っていて、この人はオタクかもしれないと思ったのは、たとえばこんな言葉。

 
 ぼくはその頃、新聞の名前を集めていた。
 すなわち朝日新聞とか毎日新聞といった新聞の名前の箇所を切って、ス
 クラップブックにはるのだ。
「ネコ安(水木さんの子分)、おらァ、もう新聞の名は五百になったぜ」
「五百!! すげえ、おらァ、だからおめえを尊敬してんだ」
 しかし、その頃、そういう新聞の名を集める流行はとっくに終わっていた。
 流行が終わってしまっても終わらないのがぼくの特徴だった……
(「ボクの一生はゲゲゲの楽園だ」講談社


とにかくマイペースで誰になんと言われても集めたいものを集め続ける。そして静かに自足する。いやあ、やっぱ水木先生はいいなあ。


流行が終わってしまっても終わらない、というのが特にいいです。考えてみれば水木さんは、世に何度か妖怪ブームが起きたわけですが、そういう流行とはまったく関係なくえんえん妖怪を描き続けてきたんですもんねえ。


でも一方で水木さんは運動神経が良くてガキ大将であったり、クラスメイトをいじめたおして転校させる、なんてことをやってたりもするんですよね。いっしょに旅をしていてもその達者さには舌を巻きます。


妖怪像(精霊像)を集めるためには、ぼくらは奴隷のようにこき使われましたし(誇張)、人を人とも思わないところはあります。手段を選ばず。


こんな水木先生は、果たしてオタクであるか否か、ちょっと考えてみたいところです。


まあこういう文章を書いてみたのも、僕自身があるときは薄オタと呼ばれ、同時にDQNとも呼ばれるからなんですね。変な呼ばれ方でオモロイなあと思う気持ちもあるんですけど、自分ではオタクであるつもりもDQNであるつもりもまったくないんで、突然こういう呼ばれ方をするとやはりあまりいい気持ちはしないですね。僕にはたくさんのオタクの友人がいますし、オタクに対してはそれなりのシンパシーを持っているんですけど、外部の人間をオタク内部のヒエラルキーや価値観で一元的に切り捨てるようなことを続けていると、そのうちシンパシーを持つ人間もあきれてしまうのではないでしょうか。


結局オタク対反オタクと言う対立軸が強すぎて、僕みたいな立場の人間がオタク系の作品について書くと割を食うということかもしれません。時々「どっちの味方なんだ」みたいな事も書かれますが、「俺は俺が面白いと思ったことを書いてるだけだ。お前こそ何様だ」と言いたくなります。


そういえば、10年位前、竹熊健太郎さんと『私とハルマゲドン』という本を作ったときの対談で、確か僕は『そのうちオタクになりきれなかった人間として逆差別を受けそうだな」というようなことを発言した記憶があります。なんか現実化しそうで嫌だなあ。


竹熊さんと言えば『アレ(仮題)』が出てるみたいですね。なつかしい。僕は仕事で立ち寄ったSpa!編集部で一気読みし、肩を震わせて笑いをかみ殺していたら(みんな仕事中だからねえ)、隣の席の女性編集者に「大泉さん、怖いですよ」と言われてしまいました。才能だよねえ。


というわけで買ってまいりました週刊ファミ通。ひさかたのアレ体験。ネタバレになるのであまり書けませんが、今回の担当はなかなか萌え系(笑)じゃないですか。久しぶりの純子くんもキュートだ。こういうキャラを今のゲーム界で大暴れさせたいよう。よし、はがき書くぞ。