「涼宮ハルヒの憂鬱」はポストエヴァか、という問題について3

今朝ぼこっと思いついたこと。


涼宮ハルヒの憂鬱」と「新世紀エヴァンゲリオン」はともに主題にニヒリズムにどう対峙するかという問いがある(ように僕には思える)。もっといえば、ニヒリズムの超克をめぐるアニメと感じます。


ハルヒの超克は非常に強力で力で実行されようとします。少し力でねじ伏せるようなやり方です。なにせ「超人」ですから。ここが、ハルヒが鼻につくという人は確かに鼻につくだろうと思います。


エヴァの発想は、ニヒリズムというものはそんなに簡単に超克できない、という諦めから入るとこだと思います。そこで、ニヒリズムの発生源の一つとして、トラウマというものがどうなっているかを見ようとする。最も取り上げられたのが親子関係のトラウマです。エヴァはここが掘り下げられたため、多くの人にトラウマ的な共感を発生させた。


今後のハルヒがどうなるかまだ未知数ですが、少なくとも第一期にこの発想はない。あるいはまったく異種の作品ですから、トラウマという方向は一切見ないかもしれない。するとニヒリズムそのものの掘り下げが甘くなり、その点での共感を得るのは難しいんじゃないかと思います。しかしまったく別な方法でニヒリズムを掘り下げるかもしれません。


いずれにしても、セカンドシリーズがあるなら、たいへん楽しみです。


そういえば、昨日は道場の指導者たちにもハルヒの話が出ました。


どうもわからんという人から、DVD買った(買う予定?)という人までさまざまでした。わからんという人も一応チェックはしていて、京都アニメーションのレベルの高さは認めていました。その人に言わせると、アニメの製作過程がわかりすぎるようになってしまってから、作品を素直に楽しめなくなってしまったそうです。


中味についての議論はなし。それぞれに受け止めなさいというのが基本のようです。


僕はアニメの製作過程についてはあまり考えたことがなかったな。学ぶことが山のようにありますね。


今朝は自分が死ぬという夢を4つ見ました。一番初めだけ覚えていて、それは、長島監督の指示に従いバスに乗り、長島監督についていったところ、途中で道がなくなっていて、バスごとドブンと海に落ちるという夢でした。今まさに古い自分が死に、新しい自分が作り上げられているんだと勝手にいいように解釈しました。