オタクという言葉の使用について2

先日法事があって市内に住む親族が集まったのですが、勉強もできればスポーツもできる優等生タイプの12歳の姪っ子が「BLEACH」にはまっておりました。話は盛り上がっていたのですが、同い年の息子が何気なく「○○ちゃんはBLEACHオタクだね」と言うと激怒。いや、かわいい女の子が激怒するさまは、ちょっと怖かったです。それにしてもこの不用意な性格は遺伝か、親の教育のせいなのか。


この現象からまず思ったのは、オタクという言葉のない頃なら、彼女はファンとかマニアとかフリークと呼ばれ、そして激怒することもなかったろうということでした。これらの言葉に比べて、オタクという言葉は差別的な刻印がつよいのですね。現実にそうなっているのだからどうしようもないですが、マニアとかフリークという意味でオタクと使うのはどうなのよ、と思いました。


12年しか生きていない彼女の中にもオタクに対する差別意識は根付いているのでしょう。しかしその差別意識はどのようにして生まれてきたのか。彼女がオタクに対する何らかの具体的な経験を積み重ね帰納的にオタクに対する差別意識を養ったとは考えにくい。するとオタクという語のイメージが悪いということになるのでしょう。


去年「人格障害をめぐる冒険」を書いていたときに考えていたのは、人格障害という言葉は、しばしばこの人たちを共同体から排除するために使われてきたということでした。「オタク」という言葉を使う人たちの動機にもしばしばこの「排除」があったのではないかと思います。にもかかわらず、オタクはこの社会に着実に根付いていて、しかも数を増やしている。面白い現象です。


どういう人たちが、どのような動機に基づいて「オタク」という言葉を使うのか。オタクコミュニティーの中にいる人たちがそこで自己充足し、とりたてて「オタク」という言葉を使う必要性を感じていないのなら、それはなおさら謎です。「オタク」という言葉を好んで使いたがる人の目的は何なのか。まあその中には僕も含まれるわけですが。