オタクに対する若干の文化人類学的考察

大泉は現在オタク店員修行中の身でありますが、店にいて多くの人が本やDVDやCDを重度の渇きを癒すように求めていく姿を見ると、先住民といっしょに生活していた頃のことを思い出します。彼らもまた、シャーマンのもとにやってきては貪るように物語を求め、祭りで現れるさまざまな異形の精霊キャラに熱狂して一晩中歌ったり踊ったりしていました。


水木しげるはそんな姿を見ては「人間のやることは似ております、どこに行ってもね」と言っておりました。僕がシャーマンの儀礼などを取材できたのはマレーシアの先住民セノイ、メキシコのインディオ、オーストラリアのアボリジニぐらいでしたが、水木さんははるかに多くの国に訪れて儀礼を見ています。そんな彼の口から出る言葉にはやはり説得力があります。物語を求める人間の切実な姿というのは、どの社会に行っても変わらないようです。


水木しげるのしたたかなところは、こうした経験を自分が作る物語に取り込んでちゃんと金儲けをしたところでしょうね。鬼太郎のアニソンの作詞者でもある水木さんには、アニメと先住民の祭りは同じようなものに見えたのかもしれません。


以前水木さんと京極夏彦さんが対談で「妖怪とは何か?」を語り合っていた時に、京極さんが「妖怪とはキャラクターである」という立場を打ち出していました。京極作品は一貫して、妖怪そのものを出したりせずに(これをやると迫力がなくなると水木さんも言っていた)、妖怪というキャラの背負っている物語を丁寧に描くことで、今を生きる人間にどれだけ妖怪をリアルに感じられるかという試みを行っています。彼の作品を読むと「妖怪を現代に解題している」と言いたくなります。


よく、キャラが先か物語が先かということを考えます。
例えばウブメというのは出産に失敗した女性の妖怪ですが、同様の精霊はマレーシアにもいましたし、たぶん世界中にいるでしょう。出産に失敗するという彼女の物語と、造形や性格設定といった彼女のキャラクターは不可分です。


綾波レイというキャラクターは無口な中学生として現れ、最後には地母神となって人類の再生のために首をほふられます。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメは綾波レイという女神のための壮大な祭りだったということもできるでしょう。僕はこの祭りと女神の運命(物語)に熱狂した先住民の一人であるわけです。


この時、エヴァという物語と綾波というキャラのどちらが先なのか、というのはよくわかりません。はっきりしているのは、人類という自らの子供たちの再生のために、彼女が首をほふられて死んでいくという物語が必要だったということです。そこにあったのは、地母神と言う、最も古くから伝わる神の物語の一つのバージョンでした。ウブメもまた、地母神の一つの変形でしょう。その姿をどのように現代に定着するかという点で、京極と庵野の仕事は交錯します。


縄文土器土偶地母神ですよね。綾波に比べるとずいぶん太いです。いわばあれはフィギュアなわけですけど、昔の人はああいうのにフェティシズムを感じたんでしょうかね。「フィギュア萌え族土偶とともに発生しました。僕らはその共通の子孫です」なんて論文を書いたら、大谷昭宏はどう思うだろう。