オタクとオタクコミュニティー

最近、知り合ったオタクたちが夢の中によく出てくるようになりました。先日の夢では、僕が一人のオタクとキャッチボールを始めるのですが、力が余ってはるか遠くに投げてしまう。するとそこには別のオタクがいてそれをスパッと捕ってくれる。次にはすごく手前に投げてしまう。しかしそこにも別のオタクがいて捕球してくれる。そんな夢で、ああ、僕はこのコミュニティーに受容されているなあ、と感じています。


以前僕はオタクのコミュニティーには不思議なあたたかさがあると書いたことがあります。それは「萌えの研究」の取材を通して、いわば外側から推測して書いたものです。今は内側にいて、じわじわとそれを感じます。マンガやゲームやアニメの貸し借りとか、何気なく言った一言に以外に共感されるとか(桜蘭高校ホスト部は傑作なんだろうが、はじめは「こんな男ばかりの話がオレに何の関係がある」と思っていた、とか)共感するとか(エロゲー派の先輩が「人間はすべて変態だ」と言ったときには非常に共感した)、非常にぴったりくる感じがあります。どんな暴投を投げても、誰かが捕球してくれるような。


だからこういう場は大切にしたいのですが、常にサークルクラッシュの危険はつきまといます。現代人の分析がむずかしい時、僕は外がわからの視点を得るために先住民社会やサルの行動のことを考えます。ボスザルとか独りザルとか。サークルクラッシュについて言うと、ニホンザルの群れなどでも典型的みたいです。群れそのものの寿命とか、ボス同士の対決とか、メスザルの行動がもたらす崩壊とか、原因はいろいろ考えられます。結局は、サークルもまた一つの生き物だというあたりに落ち着きますが。


このコミュニティーの中にいると「ひょっとして俺は自分が思っているよりオタクなのかもしれない」と考えたりします。いずれにせよ、「オタクとは何か?」という問題は、オタクコミュニティーの特性の解明と不可分なものと思います。