核ー事実を暴くということ

久々に核のこと。と言っても、被曝したうちの親がやってる裁判の話。


前々回の公判で父親が、前回の公判で母親が、それぞれ証人として法廷に立ち、体験した事を話しました。まあ父親はJCO事故以後皮膚病がどのように悪化したかを、母親は事故の後どのようにPTSDで苦しんだかを話しただけでしたが、どういうわけか僕は胸のうちがすっきり晴れたと言うか、重い荷物をようやく降ろしたような気分になりました。


まだ裁判は続きますし、JCO側は金と人脈に任せて次々と各界の権威を引っ張り出してきますから、こういう気持ちになってる場合ではないのでしょう。それにもかかわらずこういう気持ちになったということは、この裁判で僕が一番期待していた事が成し遂げられたということなのだと思います。つまり、国と原子力産業の権力で隠蔽されようとしていた事実が、公判という場で、白日の下にさらされたということ。


父親がこの訴訟を始めると言ったとき、僕はそれに賛成しましたが(母親ははじめ乗り気ではありませんでした)、なぜ賛成したのか、自分の心の奥にあるものは見えていませんでした。この証言でこれだけすっきりしたところを見ると、僕の中の僕は、目の前で苦しんでいる人間のその苦しみが、どこかの誰かの都合で「なかったこと」にされようとしていることが我慢できなかったのでしょう。こういうことはこの世界では日常的に起きていますし、権力が力を行使するということは大なり小なりそういうことなのです。多くの人はそれに納得できないけれど、さまざま理由から泣き寝入りせざるをえないのです。どこかの誰かはさまざまの筋を使って圧力をかけてきます。年金生活をしている両親とフリーライターの僕で構成される我が家では、たまたま泣き寝入りする理由が無かったに過ぎない。


そんなわけで事実は公文書として長く保存される事になりました。僕が何を書いても所詮原告の息子も書いたものに過ぎなくなるので、やはりこういうことは必要だったのだと思います。裁判の帰趨はどうなるかわかりませんし、70年代以降このような裁判ではおおかた権力を持つ人間が勝つ事になっています。しかも核エネルギーはこの国の、アメリカの、そして世界の為政者が意地でも正当化したいものでもあります。しかし本質的には法というものはこうした被害を救済するためにあるものだと思います。無論目の前の司法にも期待しますが、将来の司法がこの訴訟の意味を理解してくれる事を心から期待したいと思います。


何か隠されそうになっているものを暴く事。これはライターとしての僕が長年やっている事で、時に批判もありますが、よくよく僕の気質にあっているようですね。