萌えとたましい

ACTIVEエレンというブログに「萌え=ケーキ論&大泉実成さんへ」というのがあって、非常に面白く、いろいろと考えさせられたのでその感想。


http://d.hatena.ne.jp/eal/20071110


筆者のealさんの視点がとにかくユニーク。萌えとケーキを比較して論じているのですが、いちいち思い当たるんですね。特に村上なおこからの引用部「味覚だけでなく、心も満たされる夢の世界 …それがケーキです」を萌えに置き換え「欲望だけでなく、心も満たされる夢の世界 …それが萌えです」としているところは秀逸だと思う。


萌えというと、二次元キャラによからぬ欲望を抱く変な奴ら、というダークイメージを持たれることがあって、当たってないこともないので放置しているんだけれども、どうも理解されていないように感じてしまいます。「萌えの研究」を書いたときに協力してくれた「万年萌えカレンダー」の作者漢義工廠さんが、盛んに「萌えとエロは分離したい」と言っていて、いくらなんでもそれは無理だと思うのだけれど、そういいたい気持ちはよくわかる。つまり萌えがあまりにもエロティシズムにひきつけて理解されてしまうからなんですね。


そこには「なぜ心が満たされるのか」という視点が欠落していて、非常にもどかしい感じを持つわけです。ealさんはそこのところにきちんと目が行き届いていてる。この人はブログの中で自分がなぜ綾波安倍なつみに萌えるのかということを探求しながら、萌えとは何かを考えている人です。僕自身自分がなぜ綾波に魅かれるのかを考えるために「萌えの研究」を書いたので、同じ道筋をそれぞれのやり方で歩いているんだなあと思い、親近感を持ちます。まさに同志。


そこで僕の綾波に対する萌えのあり方、魅かれ方について書くと、大げさですが「たましいの衝動」とか「たましいの欲求」と言いたくなるんですね(笑いたいやつは笑え)。エロにひきつけて考えている人には、ここのところがうまく伝わらないので、とてももどかしい思いをするわけです。


つまり自分の全存在を補完し、癒し、全体性を取り戻させてくれる何かが綾波の中にある。綾波を見るたびに「静かな水は深い」というどこかで聞きかじった言葉を思い出すのですが、そのようなものを僕の精神が必要としているんだと思います。こういうのを綿々と書いていると「綾波ポエム続編」になってしまうのでこの辺にしておきますけど、萌えはたましいの欲求なのだという点が理解されない限り、もどかしさは募るんだと思います。なぜ萌えによって心が満たされたり、癒されたりするのか、というのが、この探求の入り口になるでしょうね。


ealさんのテキストの中ではもう一つ「内向性」が取り上げられていて、これも実に興味深い論点なので、それについては次回。


「萌えの研究」の中では、萌えを「アニマ」との関係で論じた部分があります。これはユング心理学の用語で、成熟のプロセスの中であらわれてくる女性的なイメージのことなのですが、アニマはまさに「たましい」という意味です。本の中ではあまり深く掘り下げなかったのですが、ここに何かポイントがあるのかもしれません。


そんなわけで、今朝は大きなかじきまぐろを釣り上げて、ビチビチ跳ねているのを逃げないように必死に押さえつけていたら、これが実によくしゃべるかじきまぐろだった、というへんてこな夢を見た大泉でした。