オタクと内向性

前回のエントリで紹介したealさんのテキストの中に、「萌えの研究」を引用した次のような部分があります。


この著書にて大泉は上記の(はてなの萌えの定義・大泉注)「主に幼女や美少女などといった、かわいらしいもの、いじらしいものを目にしたとき、脊髄反射のような感覚で起こる、生理的で原始的な感覚。魅了され、激しく心が動くこと」といった表現について、「内向的な、つまり萌える人間の内面や身体感覚などには、まるきり目が届いていない」他のウェブ辞典よりも「はてな」が優れているとし、また、なぜ萌えの対象がコンテンツに限定されるのか、と疑問を呈してもいた。


おそらく僕がはてなで日記を始めたのも、こういうことが影響してるんだと思います。一般的にウェブ辞典のようなものの場合、誰にでもわかる外向的な記述が優位になりがちです。でも萌えの場合、その内向的な側面にきちんと目が届いているかどうかというのは、非常に大きいと思うんですね。ealさんの場合は、そうした内向的な感覚を、ケーキの比喩などを使って誰にでもわかるものとして表現しようとしていて、こういうのもなかなかできない努力だなあ、と思うわけです。


この間「月刊プレイボーイ」で依頼された仕事のために河合隼雄の本を読んでいて、偶然内向性について語った部分に出会いました。


新しい場面に入るときの行動によって、両者の違いが特徴的に出てくる。こういった場合、外向型のひとが常に適当に行動できるのに対し、内向型のひとはどこか、ぎこちない感じがつきまとう。外向型のひとは、それほど深く考えないのに、適当に話しかけ、適当に黙り、まるでその場面に前からずっといたかのように、全体の中に溶け込んでふるまうことができる。内向型のひとは、当惑を感じ、こんなことをいっては笑われるかもしれないと思って黙り、ときには、「こんなときは、にぎやかにしなければならない」などという考えにとらわれて、馬鹿げた行為をしてしまって、後で一人後悔してみたりする。このように外向型のひとが、新しい場面において能力を発揮できるのに対して、内向型のひとは、自分にとって気の合った、親しい環境の中で、その能力を発揮できる。新しい場面では、無能力者のように見えたひとが、だんだんと場面に慣れるにしたがって、徐々にその能力を示してきて、他のひとを驚かすほどの深さを示すような例を、われわれは思い浮かべることができる。


この記述を読んで、内向型の人の特徴が、僕が取材してきたオタクの行動様式と非常によく合致するなあ、と思ったわけです。特に最後の文章にあらわれる「内向型の深さ」は「オタクの深さ」と対応するように感じます。庵野秀明はおそらく典型的な内向型で、インタビューする時その独特の話しづらさに閉口した記憶がありますが、それはその深さや凄みと密接に結びついているんですね。


オタクが全体的に内向的な傾向を示すことを考えると、やはり萌えを考えるにあたって内向的な側面を考慮することは、極めて重要だと思いますね。