What is OTAKU? ーオタクとは何か 第18回男の中の女、女の中の男

長らくのご無沙汰でした。
「オタクとは何か」の連載を草思社さんで続ける約束になっているのですが、担当が会社を再建中の身でなかなかうごけないとのこと。そこで、あまり中断が長くなると取材に張り合いがなくなるので、草思社さんの了解を得てこのブログで連載を続けることになりました。それでは第18回。


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店でレンタルDVDのディスクを拭きながら、先輩のHさんとの会話。レンタル部門では今年もアルバイトの半数以上がコミケに行くのだが、Hさんも初参加するという。
「何でも挑戦だー、って言われたもんですから」
「それじゃこれから『オタク』と呼ばれても反論できませんね」
「たしかにコミケはなあ。何か一つのキャラにはまったー、というのとはわけが違いますからね」
 Hさん自身、外見からするとオタクというものとはかけ離れている。すらりとした長身で、メガネを外せばいわゆるイケメン。ファッションセンスもよく、彼女もいる上に、極めてよくモテる。思いやりがある性格で、飾るところもなく、しかもユーモアのセンスがあるので、彼のいるところには笑いが絶えない。さらにはオタクが毛嫌いする洋楽にも精通している。いまは大学の四年生だが、就職も決まっている。女という生き物は、このような男を決して見逃さない。
 それがなぜコミケかといえば、アニメやマンガやゲームも、同じように大好きだからである。店のディープな先輩たちとも丁々発止のやりとりを繰り広げている。就職活動の都合でモンスターハンターには遅れて参加したが、あっという間に腕を上げ、何度も朝まで一緒に狩りをすることになった。
「しかしオタクと非オタクっていうのは何が境目なんでしょう」
とHさんが言う。あまりに連載の趣旨にそった質問をされ、苦笑するしかない。
「まあそれでえんえん悩んでるわけなんですよ」
「例えばゲームがうまかったりするとオタクって呼ばれるじゃないですか。あれはちょっとむかつくんですよね」
「結局まあ、オタクっていう言葉は、相対的というか、使う人の都合っていう部分はありますよね。相手をバカにしたかったり差別したかったりしたときに使う」
「自分の都合で勝手に使うのかー、それはあるなあ」
「男性ホルモン説、っていうのもあるんですよ、テストステロン、っていう……」
と説明しかかった時にお客さんがやってきて、会話は中断。
 この、男性ホルモン説、というのは最近知ってそのあまりの明快さに感心したものである。簡単に言えば、男性ホルモン・テストステロンの分泌の多寡によって、オタクかオタクでないかが決定されるとする説である。主張するのは本田透

 
 男が「オタク」と「DQN」に二分されるのは(もちろん、両方兼任している人とか、どっちでもない人もいます)、テストステロンの量によって性格がはっきりと分かれるからなんです。テストステロンが少ないとラブ&ピース&オタクになります。多いとDQN系になります。単純なことです。生まれつきの体質もありますが、環境によってテストステロンの量には差が出る。運動していると増えますし、ホワイトカラーな仕事をしていると体を動かさないので減ります。しかしなぜか農業に従事していると、うんとテストステロンが減るそうです。「農耕民族的」(おとなしい系)と「狩猟民族的」(ジャイアン系)という人類二分法が昔からありますが、実はテストステロンの量によって男のタイプがそういうふうに二分されているんです。(『喪男の哲学史講談社


 さらに、大学のラグビー部がよく集団レイプ事件を起こしたりするのも、テストステロン過剰な男子に運動なんかさせてますますテストステロンを増やすからだ、女性を守るためにはむしろ若者の運動を制限するべきだ、と本田は熱く説く。
 オタクと非オタクの違いを生物学的な側面から説明しようとするものだが、なかなか秀逸である。
 僕自身はというと、運動はかなり好きな方で、そんなにうまくはないが学生時代には野球をやり、卒業した後も草野球チームでプレーしつづけた口である。また、子供のころから釣りが好きで、狩猟採集を行う先住民の取材はいまだに大好きという人間だから、テストステロンはかなり多い方だと思う。つまりは「オタク」より「DQN」に近い。ある時など「大泉はDQN」、と名指しで書かれたこともある。こうした気質のせいか、はじめて「大泉はオタクだ」と言われた時には強い違和感を覚えたのかもしれない。
 そんなわけで、男性ホルモン説から自分が「オタクかオタクでないか」を考えると、「よくわからない」という結論になる。これは本田が考えているほど「単純なこと」とは思えない。しかし本田の言いたいことは、感覚的には非常によくわかる。
 
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次に、その前に述べた、他者が自分の都合によってオタクという言葉を使うケースについて考えてみよう。この場合、非常に無自覚にオタクという言葉を使う人もいれば、非常に戦略的に、時には自分を社会に売り込むためにオタクという言葉を使う人もいる。
オタクという言葉が差別語に近い言葉として使われている現在、最も多いのは、自分で自分を「オタク」と呼ぶよりも、他者から「お前はオタクだ」と規定されるケースではないだろうか。こういう場合は、たとえば自分よりゲームのうまい人間を貶めてやろうとか、自分より知識のある人間を見下したいとかいった心的な動機に基づいている。したがって、こうした点から検討していくことは、心理学的な側面からのオタクの説明ということになるだろう。
 心理学の一つの考え方に、個人の自我の最初の核になるものは、他者によって「これがあなたである」と規定されたものだというものがある。この後、自己は「他者の規定する自己」と「自己の規定する自己」の無数の往還を行うことで自己像を作り上げていく。つまりは「お前はオタクだ」という他人の意見と「俺はオタクじゃない」という自分の意見の間を自我が行ったり来たりしているうちに、自分がオタクかそうでないかという「自己像」が見えてくるということだ。
 この連載が始まった経緯にも、似たような構造が見て取れる。前著『萌えの研究』で、僕は自分を非オタクと規定した(自己の規定する自己)。そして非オタクの立場から、萌えの世界をレポートするとした。ところが多くの読者から「大泉が非オタクとはちゃんちゃらおかしい。大泉はオタクである」という反論をいただいた(他者の規定する自己)。そこで僕は、自分は非オタクであるという認識は変わらないまでも、改めて「オタクとは何か」を考え、自分はオタクであるか否かを見極めようとしたのである。そのために、オタクの人たちと生活レベルで交流し、彼らと内的体験を共有しようとした(「自己の規定する自己」と「他者の規定する自己」の往還)。
 以前、『週刊SPA!』で「おたくの宝」という連載をしていた西田好伸は、連載初期の頃の僕のような反応を「おたく第三期症状」と呼んでいた。取材をしていて思うのは、彼の言うように、人がオタクになっていく過程で、かなり共通した経過をたどるのではないかということである。西田説は詳しく覚えていないのだが、今考えると、それは次のようなものではないかと思われる。
まず、人が無自覚にオタク的活動を始めるのが第一期。それが他者から指摘されるほど顕著になるのが第二期。第三期では、自分でも自分はオタクではないかと疑いながら(オタク性の自覚の萌芽)、それゆえに外に向かっては強硬に「自分は非オタクである」と主張するのである。西田は当時『クイック・ジャパン』という雑誌の編集長だった赤田祐一を指して第三期だと言っていたのだが、これは確かに連載開始当時の僕の状態とも重なり合う。
第四期はどうなるかというと、自分は非オタクであると主張しているにもかかわらず、オタク的な活動をやめる気配がなく、むしろますますのめりこんでいくので弁解できなくなる。そこで「俺のことは何とでも呼んでくれ」という状態になるのである。つまり、オタクと呼ばれることに対する抵抗が小さくなっていくのである。
僕がモンスターハンターにはまっていた時期がまさにそうだった。店の人たちの顰蹙を買い、ダメ人間と呼ばれながら、連日朝までゲームをするのがやめられない。そこで初めて、これまで自分のことを頑なに「非オタク」と規定していた僕は、「俺のことは何とでも呼んでくれ」と言ったのである。つまり「他者の規定する自己」像を、ある程度追認する覚悟ができてくる。なので、いま僕は自分がオタクと呼ばれてもさほど気にならない。相変わらず自称する自信はないが。
では、次の第五期はどうなるのだろうか。僕はまだそこまで至っていないので推測でしかないのだが、おそらくこの段階では、自分はオタクであるという自覚を明確に持つことになるのだろう。つまり、世間ではあまり評判のよろしくないオタクというイメージを、あえて引き受け直す覚悟をする。これは、いわゆる世間なるものから一歩引いて「好きなように見てればいいだろう」と開き直ることでもあろう。また、オタとして差別される自分をネタにできる強靭さも生まれてくる。僕のようなボーダーにいる人間からは、その自嘲ネタの背後に、不屈の自信が見えるのである。
第五期以降は、さらに「オタクとしての個性化、個別化」というものが際立ってくるはずだ。特に、現在のようにオタクと非オタクの間の敷居が低くなってくると、自分がオタクであるという自覚や自己規定だけでは自我が持たなくなる。それだけでは他者との間の差別化ができにくくなっているからだ。僕のブログへの投稿ではしばしばそうした主張が見られる。そこで、蒐集、創作、評論など、オタクとしての活動にさらに拍車がかかっていくことになる。
こうした過程は個人差もあると思うし、中学一年の僕の息子なんぞは鼻で笑って「俺はとっくの昔に第五期だな」などとぬかすので、人によっては一瞬のうちにこれらの過程を飛び越える、ということもあるのであろう。こういうことが気になるのは、僕がオタクと非オタクのボーダーにいるせいかもしれない。冒頭のHさんもそういう意味ではボーダーにいる人で、僕やHさんのような人間は今後ますます増え続けると思う。こうした、いわば「一般人以上、オタク未満」の人間にとっては、この過程表は自分のオタク化のめやすとして役に立つのではないかと思う。

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 さて、ここから、これまで17回にわたって行われてきた「オタクとは何か?」という連載の、小まとめをしてみたい。というか、おそらくそれは、2004年にはじめた『萌えの研究』の取材以来の、約4年間のまとめになると思う。というのも、ひとつには、これまでばらばらにやってきた取材が、いくつかの理論と結びつきはじめたからである。そしてそれらの理論から作業仮説を作り、それを叩き台にしていろいろな人と話をしてみたいと思ったからである。したがって、この後連載は次のステージに移るということになる。無論、これまでどおりオタク修行は続けていくつもりだ。
 この連載は「オタクとは何か?」を考えながら、オタクの欲望の深層構造を考える、というのを目標にしてきた。
 連載開始当時、僕が考えていたのは、たとえば生成文法のようなモデルを立てて、ツンデレ眼鏡っ娘、妹など、多様かつ無限に分化していきそうな性嗜好の増殖を、構造解析することだった。
 ところが、実際に現場に出て、さまざまなオタクと内的体験を分かち合ってみると、「性嗜好の増殖の構造解析」といった程度のことでは、オタクの欲望の深層構造が見えてこないのではないかと思えてきたのである。そのもっとも大きなきっかけが、前々回の「ジェンダーの越境」だった。
 それ以前から、ある種のオタクの中には少女が住んでいる、という報告はしてきた。実際、カラオケで歌を歌っているとキャラクターの美少女が降りてきてしまうOさんや、好きな女性キャラになりきってメールを打つUさんなど、このような例は身近にも枚挙に暇がない。
こういうのを本田透は「乙女回路装備」と呼んでいる。本田によると、なぜか男性オタクには「少女のような純真な心」すなわち乙女回路を内蔵している人間が多く、アンデルセン宮沢賢治にもこうした回路の装備が認められるという。
そういえば安野モヨコは、庵野秀明の私生活を赤裸々に描いた『監督不行届』(祥伝社)の中で、彼がいかに乙女な人間であるかを詳細に描写していた。つまりは『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する素晴らしい女性キャラたちも、庵野のこの乙女性と無縁ではありえないのである。
そこでまた身近な例に戻るのだが、前々回に登場してもらった後輩のT君は、自分の内なる少女をフル活用してネットゲームで女性キャラとして振る舞い、性行為にまでいたるという。そうまでして自らの女性性と向き合い、女性性を鍛えまくっていると言ってもいい。ところが性嗜好は極めて普通なのである。
つまりは、性嗜好の多様性をいくら構造解析したところで、彼がなぜそうまでして自分の女性性と向き合うことになるのかは、まったくわからないのだ。
僕は彼が女性キャラをやっているときの興奮の質というものがどんなものなのか、非常に不思議に思った。それは性欲とは少し違う類の興奮なのではないか。
そこで僕が想い出したのは、先ごろ亡くなった河合隼雄氏のいくつかの著作だった。特に『とりかえばや物語』をユング派の視点で分析した『とりかえばや、男と女』(新潮文庫)である。『とりかえばや物語』は、主人公である姉と弟が、それぞれ性を逆転させ男と女として育てられる、という平安時代末期の物語である。性を逆転して育てられるだけでなく、姉の方は男として結婚までするし、弟の方は女官として東宮に仕えたりするのだ。河合はこの物語に彼自身の「日本化したユング心理学」の立場から分析を加えているのだが、その第4章「内なる異性」では、まさに人が内なる異性とどのように付き合っているかについて論じられているのである。そこで、これまで取材してきたオタクたちや、僕自身の行動を念頭に置きながら、河合の説くところを聞いてみることにしよう。

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 ユング派の考えでは、人間は本来、潜在的な可能性としては両性具有的である。しかし身体的に両性具有であるケースは極めて少なく(ギャルゲーではけっこうあるけど)、当然のことながら、男性か女性かどちらか一つの性を生きなければならなくなる。
 すると、例えば男性の場合は、一般的に男らしいといわれる行動を期待され、そうした仮面(ユング派の用語でペルソナ)を身につけなければならなくなる。社会的な期待に沿って、強くたくましく男性的に生きることが求められる。その時、この男性の女性的な側面はペルソナから閉め出され、無意識界に沈むことになるが、それが一人の女性として人格化され、夢などを通して意識に訴えかけてくることがある。この内的な女性像はアニマと呼ばれ、ユング派の基本的な概念装置の一つになっている。
 アニマには「こころ」「たましい」などの意味がある。多くの芸術家が、その中に存在する「永遠の女性」を求めて努力するという。では、それはどのような働きをするのだろうか。
「それは、人間の意識的な態度に欠けている機能を全部含んでいるので、われわれのまったく『思いがけない』働きをすることになり、否定的にも肯定的にも大きな意味を持つのである」(『ユング心理学入門』培風館
例えば、アニマはしばしば現実の女性に投影され、その時には激しい恋愛感情が働くとユングは指摘する。
「ある会社の部長は、最近入社してきた女性に対して、エロチックな空想とらわれて悩まされている。堅く真面目に生きてきた彼にとって、彼女が好きとか、素晴らしいという感じはそれほど湧かないのに、彼女の体が彼の空想をかきたてるのである。この時、彼の心をとらえているのは、彼の未成熟なアニマなのである。彼の生真面目な生き方は、枠組みにとらわれて柔軟性に欠け、他人との暖かい接触にも欠けている。彼にとって欠如している肉体性や関係性のシンボルとして、彼女は彼の前に立ち現れているのである」
その意味を読み取り、アニマを統合して自分の生き方を変えていければ良い。しかしたいていこういう意味はわからないから、現代では実にしばしば社内不倫に発展する。悪くすると、その後妻にばれて家庭が崩壊するとか、結婚できないことを苦にした相手の女性に図られて無理心中ということもある。「多くの人がアニマの魅力のため、社会的な地位のみか、命さえ失うこともあるのである」。
つまり、アニマとペルソナは対立関係にあるわけだ。
これで非常に思い当たるのが、綾波ポエム事件である。
この連載で何度か触れたように、綾波に壊れてしまった僕は、一時完全なエヴァジャンキーになった。毎日夜になると布団に横たわって酒を飲み、録画したエヴァを延々見ながらいつの間にか眠りにつく。朝になると、昨日の記憶をたどって続きまで巻き戻し、また見る。この永久繰り返し。仕事はろくに手につかず、そのうち一方的に庵野秀明監督インタビューの企画を立てて決行し、さらにエヴァのスタッフインタビューを敢行。綾波レイについて全員に引かれつつしつこくネタを振り、「綾波レイとは何か」で始まる文章をえんえん書き連ねて出版し、それはいつしか綾波ポエムと呼ばれ、こころあるたくさんの人から「さすがに寒い」「こわいよこれ」と感想を垂れられ、共同制作者の竹熊健太郎氏にはマンガのキャラにされて「綾波萌えー」と叫ばされていた。どちらかといえば社会派ノンフィクションライターであった僕には、この手のものにまったく耐性がなかったのである。あまりにも綾波そっくりなコスプレ少女の写真を見て「妻子を捨てるー」と叫んだこともある。俺はこの女と結婚せねばならない、という思考が瞬間的にスパークしたのである。あとでそれがCG合成の写真であることがわかり、胸を撫で下ろしたこともあった。つまりは、あやうく綾波で家庭が崩壊するところだったのである。
四十にして『綾波育成計画』を始めた時もひどかった。再び愛と葛藤の日々が始まったのである。このゲームは保護者となって綾波を育てるゲームで、うまく育てれば綾波と恋愛関係になるが、失敗すると綾波はゲンドウやシンジのもとへと走ってしまう。こんなの俺の綾波じゃないとか、綾波は絶対こんなことはしないとかぶつぶつ言いながら、何回も何回もやりなおしていた。なんでこんなに尽くしているのに他の男のところに行くなんて言うんだよ、と電源をぶち切った夜もあった。「そんなに好きなら綾波と結婚すればいいのよ」と妻に言い放たれたのもこのころのことである。四十にして不惑どころの騒ぎではない。惑いっぱなしである。
ノンフィクションライターであるにもかかわらず、ポエムなどと呼ばれるものを発表してしまう羽目になったあたりから、すでに展開が怪しくなっている。ユング派的に言えばペルソナの崩壊の危機だったわけである。僕は自分のアニマを綾波に投影し、そこに、「萌え」と呼ばれる激しい恋愛感情が発生したことになる。いわゆる「激萌え」というやつ。
もっとも、単にペルソナの危機に陥っただけではない。僕のこの激萌えは、庵野監督インタビューというノンフィクションライターとしての仕事に結びついている。この『スキゾ・エヴァンゲリオン』(太田出版)という本は、僕の手がけたものの中で一番部数が出た本である。それに、考えてみれば、あの激萌えがなかったら、この文章ですら書いていないのである。つまりアニマの働きは「否定的にも肯定的にも大きな意味を持つ」ことになったのである。
 ここまで考えたとき「ユング派の思考の枠組みというのは、なかなか使えるじゃないか」と僕ははなはだ感心したのである。正直なところ、これまで僕はユングのオカルティックな側面を持つ思想をどこか敬遠していた。しかしそれが心理療法の場で育まれ、多くの人の心を癒していることからもわかるように、やはり現実に役に立つのである。「オカルトだけど役に立つ」。そして、役に立つものは何でも使うのが人間という生き物なのだ。

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そこでユング派の思考の枠組にしたがって、このアニマの働きについてもう少し考えていくことにしよう。あらかじめお断りしておくが、これはユング派の枠組みを使って僕が考えているだけなので、ユング派的に正しい考え方を述べているわけではない。
よく、アニメのキャラクターに入れ込んだり性欲を持ったりすることが異常なことのように語られることがある。しかし、恋愛感情は自分の内なるアニマの投影によって起こるとすれば、投影される対象は何も人間だけに限らないわけである。アニメのキャラなど投影しやすい方であろう。河合は、車や骨董品、競馬の馬など「趣味や娯楽の世界に、アニマ体験が求められ」るケースもあると述べている。オタクの玩物喪志、ものに対する執着が、時には社会的なペルソナを破壊するほど激しかったり、どこか性的に彩られていたりするのも、こうしたアニマの働きと無縁ではないだろう。誤解を恐れずに言えば、オタクはモノに恋をするのだ。
ユング派の考えでは、一般に男性はアニマ像を投影した女性と結婚し、それによってバランスを得て男性としてのペルソナを作り上げていく。ところが、ペルソナが堅固になった中年期に、アニマの問題が内面的なものとして持ち上がってくるという。これはおそらく、硬化したペルソナに対する揺さぶりをかけるためだと思う。僕の場合、この段階でアニマが綾波に投影されたのだろう。
現実の人間にアニマが投影されることと、アニメのキャラにアニマが投影されることの間に本質的な差異はないと思う。しかし、生きて動いている人間の方が複雑で多様だからアニマ像と実像との間のギャップが表れやすく、アニメのキャラは設定にぶれがない分アニマ像との間にもギャップができにくいように感じる。ギャップが表れればそれはアニマには見えなくなるので、投影は終わる。つまり恋愛感情は冷めるわけだ。ということは、人間に対する恋愛は冷めやすいが、キャラクターに対する恋愛は冷めにくい、ということになるであろう。
それでは、僕はこのような綾波とどう付き合えばよかったのか。正確に言えば、綾波に投影された僕のアニマと。
前節の、新入社員の女性のエロチックな魅力に参ってしまった部長さんの例を考えると、彼に必要なことは、その女性社員に象徴されるもの、つまりあたたかい肉体性や柔軟な関係性を自らのものとして取り込むことだった。つまり、そこにアニマが投影されるということは、その人に欠けているものがそこに如実にあらわれているということなのである。だからそれを自らのうちに取り入れなければならないのだ。ユング派ではこれを投影の引き戻しと呼んでいる。
では、僕にとって綾波の象徴するものとは何なのか。それはおそらく、僕がまさしく綾波ポエムで謳い上げたような彼女の性質である。投影の引き戻しとは、それを自分の性質として獲得できるよう努力することである。綾波の象徴するものについて書いていくといつまでたってもこの原稿は終わらないので別の機会に譲るが、僕が驚くのは、こういう発想が自分の中にまったく無かったことであった。
つまり、僕にとっては女性の美質というのは、対象として愛でるためのものであって、それを学んで自分の内に取り込むものではなかったのである。
そしてもっと驚くのは、このような観点から見ると、店の身近な萌えオタクたちは、僕が想像もできなかったこのような女性的資質の取り込みを、実に自然に行っているということなのである。
これまでこのルポの中で、彼らの気配りの周到なことや配慮の細やかさなどを報告してきた。このような彼らのやさしさの背後には、こうした女性的資質の取り込みがあったのだ。
そこでまたどんどん気づいていくのだが、この女性的資質の取り込みが、彼らの性格や資質と深い関係性を持っている、ということなのである。たとえば、ギャルゲーの大家であるUさんとOさんは、『らきすた』のかがみとつかさになりきってメール交換をするのが常であったのだが、なぜUさんがかがみ役でOさんがつかさ役なのかということなど、僕は考えたこともなかった。しかし少し考えてみれば、社会に対して深い恨みを述べることの多いUさんには、姉として社会に対峙しながらも適切な距離をとろうとするかがみを演じることがぴったりなのだろう。同様に、人に対して気を使いすぎるところのあるOさんは、天然系で癒し系のつかさになりきることで、自分に必要な資質を取り込んでいるのではないのか。
このようなことに気づいた後、UさんとOさんに「なぜかがみとつかさなのか」と尋ねると、Uさんは、
「自然に出てくるんですよ」
と言い、Oさんに至っては
「ああいう女の子になりたいんです」
と言った。
 これも、読む人によっては「いい年をした男が、女の子になりたいとはなにごとか」とひどい違和感を覚えるかもしれない。直接話を聞いた僕でさえ、この言葉があまりに自然に出てきたことには驚愕した。ナチュラルなジェンダーの越境。こうしたセリフが自然に出てくるようになるまでには、それぞれの人生の歴史の積み重ねがあったのだと思う。そしてこの発言から僕が思うのは、やはり今の彼らにとってはこうした女性的資質の取り込みは自然で、しかもそれは切実に必要とされているのだ、ということなのである。
 とりわけ、彼らが今活動している「店」という場では、特に接客業務を円滑にこなす上で、こうした女性的資質は極めて重要であるといえる。
 そしてこの認識は同時に自分にも向かう。なぜ僕はこれまで、女性的資質の取り込みということに、ここまで無自覚で鈍感であったのか。

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それでは、「とりかえばや物語」では、女性の男性性の取り込み、および男性の女性性の取り込みは、どのように表現されているのであろうか。
主人公たちの父親である左大臣は、二人の子供について悩んでいた。というのも、娘の方はまったく性格が男性的であり、息子の方は女性的だったからである。
姉は鞠や小弓で遊び、漢詩を作り笛を吹くのが好きで、これは当時いずれも男がやることと考えられていた。一方弟は人前に出るのを嫌がり、人形遊び、貝覆(貝合わせ)など女の遊びばかりして、人が来ると几帳に身を隠し、父親と会うのさえ恥ずかしそうである。さっそくだが、なんだかこの弟君の方は、引きこもってフィギュアに囲まれゲームばかりやってる(貝合わせはカードゲームの神経衰弱みたいなゲームである)わが隣人みたいなのである。
ここで明らかなのは、物語の始まりにおいて、二人の主人公は自分と反対の性の行動に、先天的であるかのように魅かれているということである。そこに、あまり意図的な取り込みは見当たらない。ここには、人間の本性とは本来両性具有的であるという作者の見解があるように思える。
しょうがないので父親の左大臣は、姉を男として、弟を女として育てることを決意する。ただ、容貌は二人とも類まれなく美しいということになっていて、世間は姉を若君、弟を姫君と思いこんでいる。
やがて二人は社会に出る年齢になるのだが、この傾向は一向に変わらない。父親は姉を男として元服させ、侍従として天皇に仕えさせる。姉は男として立派にこの勤めを果たし、持ち前の才知もあって中納言に出世する。このあたり、女性が当時の男性社会にあっても、十分その役割を果たし得るという認識がある。さらに、この男装の姫君は多くの女性の心をときめかせる。
姉の中納言の男性としての美貌ぶりから、その妹(実は弟)はどのように美しいであろうかと考えて、帝はそばに召したいと思う。しかし父親がどうしようもない恥ずかしがり屋だからと言って断ることになる。そこで帝は、自分の娘である女一ノ宮に仕えてはどうかともちかける。父親はこれを承諾し、弟は尚侍(ないしのかみ)という職を与えられて女一ノ宮に仕えることになる。ここに至って、姉、弟はまったく反対の性で朝廷において仕事をすることになった。その過程で、姉は男性としての資質を、弟は女性としての資質を磨くことになる。そして姉の場合と同様、弟の尚侍としての世人の評判は高まるばかりとなる。
むろん、事態はこのままでは収まらない。
変化はまず弟を襲う。尚侍(弟)は東宮となった女一ノ宮に親しく仕えるようになる。ところが、女性同士として安心して同じ御帳のなかに眠るうちに、尚侍は男としての本性に目覚め、男女の関係が生じてしまうのである。東宮ははじめ驚くが、尚侍の性格に魅かれ、二人の関係は周囲にはまったく気づかれぬままに続いていく。
姉の中納言の方はより複雑な展開をたどるのだが、大筋では同じである。ともに朝廷で仕事をする色好みの宰相中将と私邸で会っていて、男性同士として気安くくつろぎ、暑い日なので装束の紐を解いていた。その中納言のあまりの美しさに正気を失ったようになった宰相中将は、中納言に関係を迫り、中納言も女として反応し、二人は結ばれてしまうのである。中納言はやがて妊娠する。
中納言は失踪という形をとって、宰相中将が宇治に用意した邸で出産の準備をする。そして初めて男装を捨て女装する。眉を抜いて墨で描き、おはぐろをつけるなどして女らしく装うと、いっそう美しく見える。この間、色好みの宰相中将がほかの女と自分の間を行ったり来たりするのを見て、男などというものは所詮このようなものだとうとましく思う。
一方京都では、中納言が失踪したため大騒ぎになっていた。特に父親の左大臣は、最愛の娘が失踪してしまい、落胆のため病気になってしまう。
姉の失踪と父親の落胆を知った尚侍(弟)は、自分が何とかしなければと思う。もともとの原因は自分たちが性を逆転させて生きてきたところにある。それならば自分が男性にかえって姉を探しに行けばいいのではないか。そこでまず母親に相談するが、母親はこれまで女として生きてきたものがそう簡単には男にはなれないと反対する。しかし尚侍の固い決意を聞き、それならばと承認する。
尚侍は自分まで失踪したというのでは世間をますます騒がせることになる、と考え、慎重に次のような手はずを整える。まず東宮には父の病気の看病ということでしばらく家にとどまる許可を得る。また、自分の旅立ちは父親にも内緒にし、侍女たちに言い含めて自分は家にいるように世間には思わせておく。このような慎重さは、弟君が女性として育ったことにより身につけた資質であろう。僕は個人的に、店の萌え系オタクの人たちの気配りの周到さや配慮の細やかさを連想する。美しい髪をばっさりと切った弟君が、烏帽子、狩衣、指貫と男装すれば実に凛々しく、それが姉君の中納言そっくりなのに母や侍女たちは驚いてしまう。
出産を済ませた姉は弟と会い、中将との関係を清算して都に戻ろうとする。しかしそのためには生まれた子供を残していかなければならず、強いジレンマに陥る。普通なら子供のために自分を殺そうというのが日本の伝統的な母親像だが、姉君はまったく逆の決断をする。「生きてさえいれば、いつかはまた会うこともあるだろう。この子のかわいさのために、男の通ってくるのだけを楽しみに生涯を過ごしてよいはずがない」。こうして子供を残すことを決断するのだが、ここには彼女の身につけた男性性の強さが表現されているように思う。
このようにして「とりかえ」が成立し、ふたりとも本来の性に戻るのだが、彼らは男性性の権化のような生き方をしている色好みの宰相中将のようなキャラクターより、はるかに社会的に成功するのである。姉君の方は帝との間に子を設け、その子はやがて帝位に着く。つまり彼女は天皇の母、国母となったのである。一方の弟君も関白の位まで登りつめ、まことにめでたい結末となる。これまで見てきたように、二人が反対の性の資質を十分に取り込んできたことが、この結末を運んで来たと言っても過言ではない。


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 ここで改めて、とりかえばや物語を萌え系オタクとの対比で考えてみたい。
 あらすじの要約の中で何度か言及したように、主人公、特に弟君の生き方は今日の萌え系オタクと重なり合う部分が多い。彼は初め、男性的な暴力と競争の場に出るのを好まず、部屋の中で女性的な資質を伸ばすことを選択した。同様に、現代でこのような資質を持った人間は、あまりにも容易に差別やいじめにさらされるため、部屋に戻り引きこもりの状態になりやすいのである。例えば原作版『ローゼンメイデン』で、主人公のジュンが引きこもりになるのは、彼が男子であるにもかかわらず非常に美しいドレスのデザインをしたためである。それが学校の他の生徒に知れ渡り、容易に差別の原因になったのである。この辺は、『ローゼンメイデン』という物語が、なぜ今のオタクの琴線に触れるのかを深いところで説明している。この時に受けた傷を、ジュンは部屋の中でドールたちと戯れることによって回復し、成長していく。これはとりかえばやの弟君が人形遊びを好んだことと重なり合う。
 男性が女性的な資質を持つこと、そして内向的な生活の中でそれを育てることは、現代では異常とみなされるか、そうでなくても忌避されることが多い。男の子は男の子らしく暴力的な競争の場に出ること(たとえば中学生になったら運動部に入ることが好まれるとか)、また部屋にいることなく常に学校に通うことが正しいとされる。つまり単性的で外向的であることが、現代社会では非常に重視されるのである。両性具有的、内向的なことは切り捨てられがちだ。
 前前節の終わりで、僕は自分がなぜ女性性の取り込みにここまで無自覚で鈍感だったのかと書いたが、それは僕自身が無自覚のうちにこうした世間的な価値観を肯定していたからだとも言える。つまり僕は宰相中将のような色好みの単性的、外向的なキャラクターでしかなかったのである。
「とりかえばや」に照らせば、現代の萌えオタクのように一時的に内向し、女性的な資質を身につけることは、むしろ必要なことと考えられているのである。「回り道理論」とでも言うべきだろうか、回り道をすることによって女性的な資質を取り込み、両性具有的になってより大きな人間としての成長を目指そうとするわけだ。もっとも、回り道にはまりっぱなしで戻ってこない、という人もいるだろうが。
 現代における両性具有性の重要性について、河合は「現代人は言うならば、二分法の病を病んでいる」と述べている。
河合によれば、現代人は「心と体、自と他、善と悪などを明確に分離することによって、多くの成果(特に自然科学の)を得てきた」という。確かに、二進法に則るコンピュータの進化と、それを背景に進められる現代科学の発展などは、その最たるものであろう。科学は自然を自分から切り離し、素材(マテリア)として見る傾向がある。ということは、科学の進歩によって、それを利用する人間は自然から切れた存在になることになる。それに対する自然からの反動として、心身症境界例など、二分法では解決できない問題が生じてくる。「従ってそれの癒しとしての全体性の回復のために両性具有のテーマが生じる、と考えてみてはどうだろうか」と河合は提案する。
 萌えオタクの女性性は否定的なニュアンスで語られることが多い。たしかに否定的な側面がないとは言わない。しかしその多くは、現実の女性にもてないから二次元の女性に逃げているのだろうとか、能力がないから内向して引きこもるのだろうといった、極めて単性的、外向的価値観に基づく深みのない批判であることが多い。このようにユング派の道具立てを使って、改めて両性具有性という視点から萌えオタクを見てみると、彼らの行動が非常に重要な要素を持っていることがわかると思う。
 無論、反対の性の資質の取り込みというのは、人間が成熟する上で、どんな分野に生きる人にも起こることである。しかし、萌えオタクとやおいの世界には、とりわけこれが起こりやすい。では次回は、それがなぜかを少し考えてみることにしよう。