What is OTAKU? ーオタクとは何か 第20回男の中の女、女の中の男2

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そろそろ腐女子について考えねばなるまい、と思い、手始めに『腐女子彼女』『となりの801ちゃん』などの関連書を買ってきて読む。
なんというか、こわごわと読み始めたわけだが、自分の知らない異界の話というのはやはりそれなりに面白く、再読三読する。異様な話の連続とはいえ、扱っているのが女の人たちなので、少しゆるやかな気分になる。ふーむ。これらの文献から推測すると、2006年から2007年にかけて、腐女子ブームというのが静かに展開されていた模様である。
非常に印象的だったのは、801ちゃん1巻のラストの四コマ。久々の彼氏のスーツ姿に思わず801ちゃんの中身が飛び出す。
「ギョヘーーー! スゥツゥ!! スゥツゥ!! スーツや!! ええのう!! たまらんのう!! グェッヘッヘッヘッヘッへェー!! 男前が3割増やないか!!」
声を発しているのはかわいい女の子である。しかしこの反応は、制服を前にしたオヤジとほぼ同じである。ネタとして強調されているとはいえ、「ひょっとして、この人たちの中身はオヤジ?」という強烈な印象が残った。考えてみると、自分の彼氏を「受けセバス」と命名して腐女子仲間とからかい倒すY子さん(『腐女子彼女』)もかなりのオヤジであるし、T君は惚れてふられた女子高生腐女子のSさんのことを「高校生なのにオヤジが入っている」と述べていた。してみると、全員が全員ではないんだろうけれど、かなりの腐女子が「オヤジ入り」なのかもしれない。
これは男性オタクの一部が「乙女回路装備」であるのと、ある種のシンメトリックな関係をなすように思える。
そんなことを考えているうちに、当のSさんからメールが来た。
内容は、前回の原稿を読んで、間接的に僕に迷惑をかけたことを知ったための謝罪であった。といっても、彼女にイカレて仕事をしなかったのはT君のほうであるし、こちらは部署も違っていたので直接迷惑をかけられたわけではない。律儀なことであるよなあ、と読み進めていくうちに、非常に興味深い箇所に出くわした。
 それは、T君が彼女を「オヤジが入っている」と言った根拠になっている部分についてだった。彼女にはトイレのことを便所と呼ぶ習慣があり、それがオヤジみたいなのでやめて欲しいというのがT君の主張であった。彼女はなぜ自分がトイレのことを便所と呼ぶのか、その理由について書いてきたのである。
 それによるとSさんは洋風なものが嫌いであり、たとえばホームルームも朝の会や帰りの会、長いものは学級活動と呼ぶそうである。したがって「私の中では便所は便所であり(時にはお手洗い)トイレなんてオサレに言うような人間ではないのです」ということになる。
 トイレという言葉の使い方がおしゃれかどうかは議論の分かれるところと思うが、主張そのものはとても明快である。しかしトイレという極めて日常的なレベルの日本語まで「洋風」と考えることになると、この人の日常言語生活はかなりたいへんそうである。パソコンやテレビやラジカセをいったい何と呼ぶのであろうか。個人的電子頭脳?電波画像受信機??電波放送受信装置つき磁気帯録音機???
 いずれにせよ、このように物事を原則的にとらえ、それを論理的に展開、敷衍していくという資質は極めて男性的なものであろう。僕自身は女性が男性的資質を取り込んだり、育てたりすることは極めて重要だと思っているので、このような彼女の資質は非常に大切であると考える。また、彼女の中に男性的な資質を見たという点では、T君の「オヤジ入っている」という主張もあながち外れているとは言えないであろう。
オヤジというのは、まあ言ってみればむき出しの、しかもイケてない男性性の象徴みたいなものである。では、こういう女性の中の原始的な男性性は、どのような形で成長していくのだろうか。

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Sさんが店に来たときに、お薦めのBLを教えてもらう。
彼女が薦めてくれたのは『愛で痴れる夜の純情 傾城編』白泉社花丸コミックス。この手の本を読むのは、オウム真理教の体験修行ルポを書いていたとき、オウム内で知り合った“上祐追っかけギャル”推薦の青山×上祐本以来である。
 Sさんの好みを反映してか、舞台はまったく洋風ではない吉原の遊郭。男ながらも美貌の傾城たちが見世で客を取る世界である。彼らは色子と呼ばれるが、この色子という用語どこかで見たことがあると思って記憶をたどっていったら、萩尾望都の『マージナル』だった。現在のBLの源流の一つは萩尾望都竹宮恵子山岸涼子ら24年組であると頭では理解していたが、なるほど遺伝子がときおり姿を現す。
 蜻蛉は吉原の花降楼でもずば抜けた美貌で知られる傾城である。彼と見世でお職(売り上げトップ)を争うのが自由奔放な性格の綺蝶で、二人は今では犬猿の仲といわれているが、禿時代は双子のように育った一番の親友でもあった。物語は奔放な性格の綺蝶を攻め、潔癖で不器用な性格の蜻蛉を受けとした恋愛物語として、客の東院や岩村、見世の遣り手鷹村を巻き込んで展開していく。
 読んでみてわかったのは、思っていたより抵抗を感じない世界だということだった。これは主人公の蜻蛉が、ツンデレお嬢によくいるタイプのきりっとした美女にしか見えないせいかもしれない。綺蝶は男にしか見えず、つまり僕にはこの恋愛が男女の恋愛にしか見えないのである。構成もしっかりしており、心理描写も繊細で、一場の恋愛物としてまずまず楽しめる。まあさすがに濡れ場で男同士のからみとなるとゲンナリし、全般的に少しずつHPが削られるような気分になるが、これはまあしょうがない。少なくとも僕にとっては、何が面白いかさっぱりわからなかった百合物に比べればはるかに息のつきやすい世界である。
 それにしても、双方男という設定であるにもかかわらず、片方が男、片方が女にしか見えないのはなぜなのか。僕が思ったのは、このような物語と戯れる作者や読者の‘こうあって欲しい’という男性性が攻めに、そして女性性が受けに投影されているのではないかということだった。
 それでは、この物語に、そして綺蝶に投影されている男性性とはどのようなものなのか。
綺蝶はまず、女性的主体である蜻蛉とお職を争う存在として、すなわち同等の美しさを持つものとしてあらわれる。犬猿の仲と呼ばれ事あるごとにからんでくるが、別に底に悪意があるわけではなく、むしろ興味があるのでちょっかいを出してくるというからみかたである。時々性的なニュアンスでじゃれついてきたり、体に触れてきたりする。時に蜻蛉に手ひどく拒絶されたりするが、まったくめげる様子もない。
あるとき暴漢に襲われ連れ去られそうになった蜻蛉を、綺蝶が身を盾にして守るという事件が起きる。この後、引く手あまたの蜻蛉に何度目かの身請け話が出るが、「年季が明けたらさ 一緒にあの門を出て行こう」という、少年時代に綺蝶とかわした約束が思い出されてきて、踏み切れない。
怪我を負った綺蝶は、回復期に客に無理心中を図られ、さらに傷を負う。看病を通して蜻蛉と綺蝶との距離は縮まっていき、お互いの気持ちを探りあうようになる。そんな時期に、綺蝶は「おまえ しばらくここへはくるな」と言う。もてあそばれたと思った蜻蛉は深く傷つき、腹いせに綺蝶の客を横取りしようとする。
 うまく綺蝶の客を横取りにし、初会ということで儀式的な床入りと考えていた蜻蛉だったが、客に暴力的に組み伏せられてしまう。嗜虐的な男は、蜻蛉に猿ぐつわをかませ、首を絞めながらことに及ぼうとする。蜻蛉は死を覚悟するが、そこに綺蝶が飛び込んできて蜻蛉を助け出す。男は暴力団関係者で、ある人物から依頼され綺蝶を殺そうとしたことがわかる。実は綺蝶は、元華族北之園家の誘拐され行方不明になっていた御曹司であった。これまでの数々の事件は、いまさら直系の綺蝶に出てこられると困る北乃園家の甥が仕組んだことであった。「しばらくここにくるな」という綺蝶の言葉は、そうした事情がわかってきたため、物騒な自分の身辺から蜻蛉を遠ざけようとした思いやりの言葉だったのである。
 それでは、この物語り全体が強調している綺蝶の男性性はとは何か。
それは、その場の感情にとらわれない、合理的で長期的、しかも構造的な外向的思考である。そしてその思考に支えられた、行動的で自己犠牲的な愛情表現である。それは表面的にべたべたすり寄ってくるような愛情ではなく、真に相手のことを思いやり、相手の置かれている状況や思考を構造的に読み切り、いざという時に現れるような客観的な愛情である。そのような男性的主体で、しかも美形で貴種。いやあ、ファンタジーだねえ。
 いずれにせよ、物語を紡いだり読んだりすることでこのような男性性と戯れながら、BLを愛する人たちは自らのうちにこれらの男性的な資質を取り込んでいくのだろう。
 一方女性的主体である蜻蛉はどうだろうか。
彼は心の底では綺蝶に魅かれているが、その自分に素直になれない。構造的な思考は苦手で、常に主観的で、いわばその場の感情で動いてしまう。そしてその感情はあーだこーだと思い悩み、いつも揺れ動いていて安定しない。
 なんか一昔前の少女マンガの主人公みたいだが、このような性格特性のほうが女性読者は共感しやすいのであろう。しかしこれが作者や読者が‘こうあって欲しい’と思うような女性性なのであろうか。それとも、理想的な女性性というよりは、むしろストレートな自己愛の投影?
 そんなわけで、攻めのありようはよくわかったのだが、受けが今ひとつ理解できなかった。これはもう少し読み進まねば。(to be continued)