否認・抑圧・忘却・反復

事故から2年ということで、先週あたりから大量の福島原発事故特集が組まれていますね。JCO事故のときもそうでしたが、事故何周年で番組が集中するというのは、通常のニュース枠からはどんどん外れていきますよ、という徴です。首相官邸前の抗議デモも、最大時で15万とか20万とか言われましたが、先日調べたら200人代まで減っていたとか。今後増えるにしても一時的現象にとどまるでしょうね。「忘却」というやつですね。残念なことですが。


昨日、奥様が焼身自殺された川俣町山木屋の渡辺幹夫さんのところに行って話を聞きました。詳しくは後でウェブマガジンで発表する予定ですが、奥様が原発事故の避難生活によってうつ病になり自殺をされたことは、2人の精神科医の判断からも、常識的に考えても間違いないところだと思います。この問題については、初めは裁判にするつもりはなく、東電に交渉に出向いたのだが東電の対応は門前払いだったということです。やむなく渡辺さんは訴訟を起こし、僕は公判を2度取材しましたが、東電は明確な態度を示さず裁判は長期化の様相を見せています。


およそ2年前、僕はこのブログで「母の事例でも明らかなように、心の被害は目に見えづらく、証明することも困難である。したがって国は、複数の医師の診断書があれば認めるといった、比較的簡素な証明で補償を認めるべきではないか。心身の被害の上に、さらに裁判などの苦痛を被害住民に課してその傷口をえぐり出すようなことは、絶対にあってはならない」と書きました。


「絶対ににあってはならない」と書いたことが起こってしまいました。実に残念でなりません。


しかも家族が自殺して裁判を起こした人は渡辺さんだけではないのです。


何故被害住民が裁判に苦痛を感じるのか、その根底には原子力損害賠償法が原子力産業を守るために作られたため、事故がおきたときは「被害者側証明」、つまり事故被害者が自ら事故と被害の因果関係を証明しなければならないことにあります。加害者側は文句を言っていればいいので、被害者は法廷で容赦ない罵声を浴びます。これが心身にダメージを受けている事故被害者には実につらいことなのです。


この点については僕以外にも多くの人が指摘しているはずなのですが、原子力損害賠償法を見直そうという動きは潰されつづけています。ここには原子力産業と深く結びついている権力中枢からの抑圧があります。自民だろうが何だろうが、政権与党はたくみにしらばくれることでしょう。


国民は忘却し、中央は抑圧する。否認、というのは精神分析の用語で、現実に存在するのに認めようとしないこと(ツンデレですね。「別にあんたのことが好きなわけじゃないんだから」といいながらお弁当を作ってくるみたいな)を指します。原発事故でこのような被害者がいることは容易に想像がつくわけですが、都合の悪いことはないことにしてしまう。これは東海村民にとっては、原発の定期検査のときに流入してくる、雑巾で直接炉内を清掃するような流動労働者(当然重度の被曝労働です)が認知されていないのとよく似ています。


否認、抑圧、忘却、そして次に来るのは反復です。とりあえず「安全」な原発を輸出しようとする努力が今まさに全力で行われています。「新安全神話」がまさに生まれようとしているわけですね。なんだか日本という国そのものが、巨大な原子力ムラに見えてきました。