核という呪い ブログ版

4月20日に、友人のノンフィクションライター・木村元彦とドキュメンタリーのVTRをつくり、BS11の「ONZE」という番組で放映してもらって、スタジオで元村有希子キャスターや二木啓孝さんと話しをした。「サリン事件から19年 元オウム信者たちは今」みたいなタイトルだったと思う。


これからアップするのは、その取材で知り合った林久義さんというチベット仏教徒で、オウム信者の脱会カウンセリングをやっている人から依頼された文章である。オウム信者の疑問にはきちんと仏典に当たって答えることのできるすごいひとで、脱会させた信者も多く、カウンセリング成功率も高い。


また福島の支援も行い、原発問題全般にも目の行き届いている人だった。


この原稿は2010年の福島原発事故前から書かれていたのだが、書いている途中で原発事故が起こってしまい、2011年の5月に「怖い噂」誌上で発表したもので、さまざまな原子力問題に触れている。林さんが知りたがっていたのは、(8)に少しだけ書かれている「もんじゅ事件」の西村成生さんについてである。我が家でやったJCO事故の裁判ともんじゅ事件の裁判の弁護士がたまたま同じ海渡雄一さんだったのでいろいろなことを教わり、触発されて書いたことを覚えている。
 では。




……JCO事故の年、南中学でやった住民説明会に赤石っていう医者が来でたろう。ほれ、科学技術庁のナントカっていう課長と一緒に。俺らには「健康への影響はないから安心してください」って言っでだろう。それが、この間やった事故から十年のテレビに出でで「健康への影響については、当時はまったくわからなかった」だどよ。(東海村の82歳の老人)

                   (1)

 横川豊の二人の部下、大内久と篠原理人は、1999年の東海村JCO臨界事故で、職場で大量の中性子を浴びて死んだ。
 中性子を大量に浴びたといっても、大きな爆発に巻き込まれた時のように事故直後に死んだわけではなかった。たとえば、致死量をはるかに超える約18シーベルトの被曝をした大内は、事故後入院した当初は極めて元気だった。大きな外傷は見当たらず、精神的にも落ち着いており、看護婦を相手に快活に冗談を言った。
ラグビーをやっていた大内は、70キロを超える大きな体格をしており、明るく快活なイメージとともに彼を記憶している看護婦は少なくなかった。主治医の前川和彦(東京大学医学部教授)でさえ「ひょっとしたら良くなるんじゃないかな。治療したら退院できる状態になるんじゃないかな」という印象を持ったという。無論、被曝医療の専門家であった前川は、放射線についての科学的な知識は十分持ち合わせていた。
 
事故から六日後、医療チームの平井久丸は、一枚の顕微鏡写真を見て自分の目を疑った。
 そこには、大内の骨髄細胞の染色体が写っているはずだった。しかしそこには、バラバラに散らばった黒い物質が写っているだけだった。大内の染色体は、大量の中性子を浴びてその鎖を断ち切られ、まるで砂のようになっていたのである。
 染色体はいわば生命の設計図である。人は毎日大量の細胞を失い、同時にそれを作り上げながら生きている。たとえば人の表皮細胞は、毎日約4000万個ずつ失われ、ほぼ同じ数だけ作り上げられる。そのための設計図が染色体なのだ。染色体が破壊されたということは、今後二度と新しい細胞が作られないということだった。
 事態は、この染色体写真の不吉な予言のとおりに進行した。たとえば大内の腕は、入院したときは少し腫れているように見えるだけだった。しかし一ヶ月ほどたつと、皮膚は剥がれ落ち表面は赤黒く変色した。その腕は明らかに、広島長崎の被爆者と同じ腕だった。大量の中性子に染色体をズタズタにされることで、大内の体は、いわばじわじわと死に蝕まれていったのだった。

 大内は事故から83日後の、12月21日に他界した。享年35歳。
 あるいは、一瞬で済むはずだった死が、その苦痛が、83日間に「引き延ばされた死」と呼べるのかもしれない。
 司法解剖を行ったのは、筑波大学法医学教室の三澤章吾だった。三澤はこれまで3000体あまりの遺体を解剖してきた経験豊富な医師だった。
 しかし、大内の遺体の正面にメスが入ると、これまでに三澤の見たことのないような臓器が目の前に現れた。
 巨大な蛇がのたうちまわっているように見えるのは、腸だった。体の粘膜はすべて失われていた。腸には2680グラム、胃には2040グラムの血液がたまっており、長い間胃腸が動いていないことを示していた。筋肉細胞は繊維質がほとんど失われ、細胞膜しか残っていなかった。そのなかで、不思議なことに心臓の筋肉だけが、赤く、鮮やかに残っていた。
 心臓の筋肉だけが残っていたことに、三澤は、大内の「生きたい」という強い意志を感じたという。起こりえないと言われ続けてきた原子力事故で、中性子を大量に浴びるというあまりにも悲惨な事態に追い込まれ、なすすべもなく死んでいった大内。妻と小学3年生の息子を残し、若くして絶望的な死を与えられた大内の「生きつづけたい」という必死の訴えが、赤い心臓から聞こえてくるように三澤には思えた。

 日本人は、自然な生と死を尊んできた。与えられた寿命をせいいっぱい生き、死ねば“ご先祖様”すなわち祖霊となって子孫を見守るとされてきた。
 しかし、この死はいったいなんなのだろう。これが自然の死といえるのだろうか。あるいは、人間の死と。
 (主要参考文献 『東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録』(岩本裕著 岩波書店))