核という呪い ブログ版(7)(8)

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不思議なことはほかにもたくさんあった。たとえば、一番大きな症状が出ているのは臨界を終息させるために現場で作業したJCO社員のはずであった。しかし彼らは会社によって囲い込まれ、情報がまったく出てこない。
 ある時、被害者の会にやってきた女性が、村で出回っているという次のような噂を話してくれた。
東海村から出る特急ひたちに、JCOの幹部社員たちが乗り合わせていた。これはそこに同乗していた人の話で、東海駅を離れると、たぶん夕食時だったのだろう、彼らは弁当を食べながら軽く酒を飲んで同僚の噂話を始めた。それは事故の処理に当たった社員の一人だったが、会社の強い慰留にもかかわらず退職し、かねてから念願だったそば屋を開店した。開店して数ヶ月してから店を訪れると、珍しく頭にバンダナを巻いている。不審に思ってたずねると、「どういうわけか髪の毛が抜けちゃって」と言ったという。また数ヶ月して店を訪れたとき、話しかけてもなかなか答えないので不思議に思ってよく見ると、彼の口から何本もの歯が抜けていた、というのである。しかも、JCOの幹部たちはその話をしながら笑っていたというのだった。
この噂が事実であるかどうかは定かではないが、これは、東海村民が原子力産業の幹部たちに抱いているイメージをよく表している。
2002年、母は著名な精神科医である高橋紳吾医師にJCO事故によるPTSDだと診断され、その診断に沿った治療がなされたためか、急速に回復した。父は、自分の皮膚病の悪化についても専門家からJCO事故との関係を指摘されたため、夫婦の健康被害に対する補償を求めて、JCOに対して損害賠償の訴訟を起こした。
 父の裁判を手伝う過程で、僕は多くの原子力関係の裁判の例を知った。
たとえば、原子力産業が、被曝しながら原子炉を雑巾で掃除するような、原発労働者たちの過酷な仕事に支えられていることは広く知られている。
長尾光明さんは多年にわたり原発労働者として働いてきたが、1992年ごろから体調不良を感じるようになり、1998年に多発性骨髄腫と診断された。これは「骨のガン」として知られている病気で、進行すると病気の症状で骨が変形し、骨折してしまうこともある。長尾さんは原発での被曝しながらの仕事が原因ではないかと考え、労働災害の認定を求めた。
厚生労働省は専門家チームによる検討委員会を作り、被曝と病気との因果関係について慎重に審議した結果、2004年にこれを労働災害として認めた。
次に長尾さんは原発の経営者である東京電力を相手に訴訟を起こした。ガンを発病させてしまうような環境で仕事をさせている東京電力の責任を明らかにし、現在も原発で働く後輩たちの仕事の環境を少しでも良くしようとしたのだった。因果関係は厚生労働省も認めているため、裁判は長尾さんの出す条件を東電がどこまで認めるのかが焦点になると思われた。
ところが、裁判が始まると、長尾さんと東電の訴訟であるにもかかわらず、国、おそらく旧科学技術庁系のグループが、露骨に裁判に関与するようになったのである。自分たちの利害が危機にさらされていると考えたのだろう。そして、そもそも長尾さんの症状は多発性骨髄腫ではないのだという、明らかな暴論を主張し始めた。
ところが、科学系の研究費を握っている国のこのグループが裁判に関わり始めたせいなのか、各学派の権威たちが東電の主張を後押しし始めたのである。その結果、裁判所はこの暴論を全面的に認めてしまったのだ。
この結果は、同じように原子力問題の裁判を争っている人間としては、実に不気味に思えた。
だが、それどころか、殺人事件を隠蔽するような裁判すら起こっていることが、徐々に明らかになっていくのである。

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これは新聞や週刊誌などでも取り上げられていたから、ご存知の方もいるだろう。
1995年12月8日に、動燃(当時)の高速増殖炉もんじゅで、ナトリウム漏れの事故が発生した。動燃は現場のビデオを公表したが、後にこれが編集されたものだということが発覚する。その後あまりにも虚偽報告や隠蔽工作が続いたので、動燃は当時の世論から激しい批判を受けることになる。これがいわゆる『もんじゅ事件』である。
そして、動燃が追加調査を約束した次の日に、社内調査の責任者であり、記者会見にも出席していた総務部次長・西村成生さん(49歳)が、宿泊先のホテル敷地内で倒れているのが発見されるのである。警察や動燃の発表から、メディアは「自殺」と報道した。
西村さんの死によってメディアの追求が終息に向かったことから、この死は動燃にとって、組織防衛のための生け贄のような役割を果たした。
 ところが、西村成生さんの死には不自然な点があまりに多かったのである。
 まず第一に、ホテルの8階からの飛び降りによる自殺、とされている点である。約30メートルの高さから飛び降りたのに、死体の損傷が実に少ないのである。
 さらに驚くべきことは、死亡時間の食い違いである。警察は死亡時刻は1月13日午前5時頃だと発表したが、遺体が収容された聖路加病院の医師が、午前6時50分に測定した深部体温は27度しかなかった。専門家によれば、深部体温がわずか二時間の間に10度も下がることは考えられず、死亡推定時刻は前日12日の午後10時から13日午前1時頃と推定されるというのである。ホテルへのチェックインは13日午前0時45分頃と報道されているのだが、その頃には西村さんはすでに死亡していたことになる。
 警察が自殺と発表しているためなのか、ホテルは宿泊名簿、チェックインの時刻の開示を拒否している。それどころか、自殺のダメを押したと言われている動燃のFAXがあるのだが、その着信の事実があったかどうかさえも開示を拒んでいるのである。
それだけでなく、西村さんの遺書とされているものにも、西村さん以外の人間の書き込みがあったり、動燃がその内容を歪曲してメディアに伝えたりと、あまりにも不審な点が多かった。
これらの点から、夫人の西村トシ子さんは真相を追究するための訴訟を起こした。ところが、裁判所は西村さんの主張をことごとく否定し、動燃と西村さんの死にはまったく関係がないとしたのである。
傍聴した一人が「なにがなんでも原子力を推進しようとする国の強い意志を感じる」と述べているが、あるいはこの素朴すぎる感想の中にこそ、この裁判の真実があるのかもしれなかった。


母のPTSDと 父の精神的肉体的被害を問う裁判も、この2例と同じような顛末をたどり、2010年に敗訴が確定した。
たとえば、母のPTSDなどは、診察した8人の医師が全員JCO事故によるPTSDに間違いないと述べているのに、裁判所はそれを否定したのである。根拠としたのは、母を一度も診察したことのない学界の権威の意見書であった。おそらく長尾さんのときと同様に、国の圧力がかかったのだろう。
八年間の裁判と敗訴のショックのためか、父は脳梗塞を起こし倒れた。そして2011年2月7日に死去した。
この原稿の校了直前の3月11日に東日本大震災があり、地震原発事故によってわが家はふたたび被災した。
そして改めて原子力事故が起こすすさまじいストレスを体験した。
今後、僕の父や母のような人間が無数に現れるだろう。国はJCO事故のときと同じように、健康被害を圧殺し続けるのだろうか。