核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(3)

 2012年11月20日午後1時20分、福島地裁一号法廷。
 平成24(ワ)第102というのが、渡辺幹夫さんが起こした裁判の名前である。裁判の取材に行くといつもへんてこだなと思うのであるが、これはこれなりに裁判所的な合理性があるのであろう。今日はその、第2回目の公判。
 傍聴席に座っていると、1時25分に渡辺幹夫さんが現れた。中肉中背の穏やかな表情の人だ。一分ほど遅れて広田次男弁護士が現れる。こちらは予想どおり正義感が強そうな人。白髪交じりの髪を短く刈り込み、口をへの字に曲げた一徹な弁護士、という印象である。

 福島で原発事故が起こった翌月、僕は新聞社から依頼を受け、JCO事故での経験について書いた。原稿のラストはこうだった。
「母の事例でも明らかなように、心の被害は目に見えづらく、証明することも困難である。したがって国は、複数の医師の診断書があれば認めるといった、比較的簡素な証明で補償を認めるべきではないか。心身の被害の上に、さらに裁判などの苦痛を被害住民に課してその傷口をえぐり出すようなことは、絶対にあってはならない。」
 自分が「絶対にあってはならない」と書いたことが、起こってしまったのである。
渡辺さんははじめ裁判沙汰にするつもりはなく、依頼した弁護士が東電に交渉に出向いたという。しかし、東電の対応は門前払いであった。結局のところ、やむにやまれず訴訟を起こすしかなかったわけで、それは僕らもそうだった。いずれにせよ、この裁判の取材は何より最優先にするべきであった。
 ところが、間抜けなことにこの裁判が行われていると気づいたのは、第一回公判が行われた一ヶ月もあとだった。しかも、やはり同じようにこころの被害を取材していたフジテレビ報道局の岡田宏記さんらのグループから教わるというていたらくである。印紙の問題があったので訴訟の開始は遅れるだろうと油断していたのだ。そんなわけで、第2回公判からの法廷取材になってしまった。
 原告の主張は、はま子さんが原発事故による避難が引き起こした重度のストレスからうつ病にかかり、それが原因で自殺した、というものだった。実にシンプルであると同時に、今回の原発事故による自殺者の典型であり、彼らを代表する主張であった。
 
渡辺夫妻の家は川俣町の山木屋地区にあった。
 この地域は原発から30キロ以上離れていたので、原発事故当初は避難地域に指定されなかった。ところが後に非常に放射線量が高いことがわかる。NHKの『ネットワークでつくる放射能汚染地図』取材班が「死の谷」と呼んだ赤宇木地区や、飯舘村でもっとも汚染のひどい長泥地区からも数キロしか離れていない。このため、飯舘村などと共に、2011年4月11日に計画的避難地域に指定された。
 渡辺夫妻は事故後3月15日から20日まで磐梯町の町民体育館などに避難していた。そこでは避難者が毛布一枚で雑魚寝するというような状況だった。3月21日にいったん自宅に戻って、不安を抱きながら職場である八二木農場(養鶏)に夫婦で通い、自宅近くにあるビニールハウスの世話をしていた。ところが、計画的避難区域に指定されたことにより、自力で避難場所を探さなければならなくなった。川俣町が用意した避難所はあまりに遠く、八二木農場に通うことができなかったからである。渡辺夫妻は福島市などでアパートを探したが、すでに避難者たちが入居を決めており、部屋探しは難航した。このため、避難指示が発令された4月22日以降も、渡辺夫妻は自宅に住み続けた。
 原則として計画的避難区域からは立ち退かなければならないことになっていたため、山木屋地区内ではパトカーによるパトロールなどが行われていた。渡辺家にも警察官が訪れ、身分証の提示を求めたり、早く避難するように言われたりした。そのためはま子さんは、パトカーを見るたびに、また自分たちが悪者扱いされるのではないかと怖がるようになった。
 このころからはま子さんは食欲が無くなり、体重も減少、次第に顔色が悪くなっていった。
 6月に入ってようやく福島市内でアパートを見つけ、12日に引っ越した。ところがここから、はま子さんの症状はさらに悪化していく。
 夫婦二人での慣れないアパート生活である。山木屋の自宅とは違い、隣室の住人に気遣いながら生活しなければならない。それが夫妻、とりわけはま子さんにとってかなりの精神的な負担になっていた。はま子さんは気遣いのあまり、夫に対し何度も「話し声が大きい」と注意するようになった。また、夜になっても眠れないと頻繁に訴えていた。
 6月17日、夫妻の働いていた八二木農場の閉鎖が決定し、23日まで職場で残務処理を行った。6月24日以降、職を失った二人は、アパートの中で一日中過ごすという暮らしになった。はま子さんが外出するのは買い物のときだけだった。
 しかし、買い物に出たはま子さんにも異変が起きていた。
「私たちが避難してきた人間だから、他の人から嫌な視線で見られている」「私が田舎人間で服装がおかしいから、みんなが私のことを見る」などと頻繁に言うようになった。また、買い物をしにスーパーに行ったはずなのに、店内を一周しても買い物カゴが空っぽのまま戻ってきたり、買うものが決められず幹夫さんに相談したりすることもあった。
 一方、アパートの中でも、はま子さんはテレビすら見ずに絨毯の上で寝そべって過ごすことが多かった(ここを読んだとき僕は臨界事故後の母を連想した。確かにテレビすら見ようとしないのだ)。こうしたはま子さんの様子を見かねた幹夫さんは、何度も散歩に行こうと誘った。しかしはま子さんはそれに応じなかった。また、それまでは料理が好きだったはま子さんは、料理に興味を失い、食卓には出来合いの惣菜やインスタント味噌汁などが並ぶようになった。
 6月26日から28日にかけて、親類や友人の葬儀が重なり、幹夫さんは葬儀に参加するため家を空けた。この間はま子さんはアパートにひとり残ることになった。3日間とも、幹夫さんがアパートに帰ると、はま子さんは「どうして早く帰ってこなかったの」と泣きじゃくって訴えたという。
 このころから、二人の間の会話も徐々になくなっていった。
 6月30日、幹夫さんははま子さんが「山木屋に帰りたい」と何度も言っていたので、草刈りもかねて山木屋の自宅に一泊することにした。
 アパートから山木屋の自宅に向かう途中、川俣町の『ファッションセンターしまむら』に立ち寄った。幹夫さんははま子さんの気晴らしになればいいと思い「何でも買っていいよ」と言った。ところがはま子さんは幹夫さんに買うものを選んで欲しいと言った。洋服店でそんなことを言われたのは初めてのことであった。自分で選ぶように言って、車に戻った。
 後になってわかったことだが、このときはま子さんは、色違いのまったく同じ服を6着購入していた。
 買い物を終えてから夫妻は山木屋の自宅に帰った。一泊の予定だったので、幹夫さんが「明日の午前中には帰る」と言うと、はま子さんは「ずっと残る」と言い出した。「あんた一人で帰ったら」と言うので、幹夫さんは「バカなこと言ってんでねえ」と言った。
 草刈りを終えてから、二人は山や木々など外の風景を一望できる廊下のソファで夕食を食べた。このときもはま子さんは「アパートには戻りたくない」と言った。
 その後、テレビを見ながら晩酌をし、就寝した。夜中に幹夫さんが目を覚ますと、はま子さんは横で泣きじゃくっており、幹夫さんの手をつかんで離さなかった。
 7月1日、幹夫さんは午前4時に起きて自宅周辺の草刈りをした。はま子さんはまだ眠っていた。
 午前5時半ごろ、自宅から50メートルほど離れたゴミ焼き場の近くに火柱を見かけた。幹夫さんが、はま子さんが起きてきて、古い布団でも燃やしているのだろうと思った。
 午前6時に草刈りを終え、午前7時ごろまで部屋でテレビを見ていた。はま子さんが起きてくる気配がないので家の中を探したが姿がない。家の周りを探したところ、はま子さんがゴミ焼き場近くに倒れているのを発見した。自らに火をつけた様子だった。
 幹夫さんは急いで119番通報をした。はま子さんは救急搬送されたが、すぐに死亡が確認された。死因はガソリン様の液体をかけて、自らに火をつけたという焼身自殺であった。遺書はなかった。
 弁護団は以上の経緯から、はま子さんが原発事故とそれに引き続く避難生活によりうつなどの精神疾患を発症し、その症状が悪化して自死にいたったと主張している。
 また夫の幹夫さんは、はま子さんの自殺の理由について次のように述べている。


自死に至った理由を私なりに考えてみたところ、磐梯町の町民体育館や福島市小倉町のアパートに居る間、妻は主に以下の点について何度も繰り返し不安を述べていた事を思い出します。
1.平成12年に建築した家のローンがあと1100万円(月々10万円の支払い)残っている。
2.川俣町での仕事を失って、やるべき仕事が全くない。
3.初めてのアパート暮らしになじめない。
4.それまであった近所、職場での付き合いがなくなってしまった。
5.同居していた長男、二男も別居してしまった。
また、6月30日、夫婦で就寝後に私が夜トイレに起きた時、同時に目覚めた妻が私の手を掴んで離さなかった事が強く印象に残っております」


 その日の公判では、被告・東電側の態度が問題になった。あくまで原告の専門家(医師)の意見が出てから反論するというのである。
 広田弁護士が舌鋒鋭く切り込んだ。
 むろん医師の意見書は出す予定になっているが、もし医師の意見書を出さない場合、東電は反論しないのか。そもそもこの裁判は、医学的な知見だけが100%を占めるのか。そうではないはずである。東電側は法律家としての見解を速やかに主張するべきである。そうでなければ裁判は長期化し、救済されるべき被害者の救済が、ずるずる引き延ばされてしまう。
 電話でも言っていたが、広田弁護士は何とか医療裁判に持ち込まれるのを阻止しようとしていた。
 この主張に対して、東電側はあくまでも医師の意見が出てから反論するという構えを崩さない。すると潮見直之裁判長はこう言った。
「もちろん医学的な知見、医学的な文献は双方に用意していただきますが、裁判所は医師が亡くなった人の診断ができるとは考えていません。すなわち、はま子さんがうつ病に罹患したことが、争点であるとは考えてはいません」
 あくまで医師の意見のこだわる東電側に、間接的に主張を述べるよう促す発言であった。
 
これはわれわれがやっていた裁判とはずいぶん様子が違うぞ、と僕は思った。
 JCO事故の時、事故が原因でPTSDになったと裁判所に訴えたのは母だけであった。僕は取材で他の事例も知っていたが、裁判所にしてみれば稀なケースであるから、医療上の厳密な審議が必要であると考えたのだろう。そこで、PTSDであるかどうかを争う医療裁判となっていった。
 一方で、福島第一原発の事故のあとでは自殺者が多発した。その大半がはま子さんと同じように避難のストレスによる自殺であった。さらに、潮見裁判長が言ったように、はま子さんはすでに亡くなっており、はま子さんがうつ病に罹患したかどうか争点にするのは事実上不可能である。だとすれば、より広い視座から、はま子さんの自殺の原因が原発事故であるか否かを判断することになる。
 公判が終わってから広田弁護士に挨拶し名刺を交換すると、
「あんたか」
と、ひとこと言って口元を緩めた。広田氏にとっても想い出に残る取材依頼であったようだ。