核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(6)


 
福島県伊達郡川俣町の山木屋地区を、渡辺はま子さんの家を探して走った。

2013年3月9日。朝。
今日は計画的避難区域に取材に行くと言うと、妻は汚濁を見る強い視線で
「靴の土は、払ってきてね」
と言った。日立市にある僕の家では、高校生の息子を育てている。
 どこで払ってくるのか、それがまた問題なんだよな。

 朝のニュースで、大阪市の家庭から出た生ゴミから、33ベクレルの放射性セシウムが検出されていることが明らかになったと、大阪市が発表していた。
汚染されていたのは、魚か? それとも野菜か、あるいは米だろうか。
 食品の出荷制限はキロ当たり100ベクレルだから、福島から遠い西日本とは言っても、ある意味でありうる事態である。
 しかし、たとえばバンダジェフスキーも危険視するように、20−30ベクレルの内部被曝を深刻な数値と捉える専門家もいる。
 大阪ではパニックにはなっていないようだ。日本中が放射能汚染という汚濁に飲まれ、徐々に無感覚になっている。
 
山木屋に近づくにつれ、人家が少なくなっていく。
そのものずばり、茸山なんて山がある。この土地の人たちが、どれだけ自然と一体化してきたかが目に浮かぶ。
幹線道路を折れて、枝道に入る。
深い山と山の間に細い川があって、その川に沿って、ポツリポツリと家がある。家の入り口には、バリケードが作られている。泥棒除けだろう。
 隣家までの距離は遠い。500メートルから、時には1キロを越える。
 山間に開かれたわずかな土地に畑があり、ビニールハウスが作られている。
 雪解け水が、あちこちでちょろちょろと流れている。これらの水は、どのくらい汚染されているのか。
 頭ではわかっていたが、こんなに深い自然の中だとは思わなかった。現場に来て、それが身にしみた。ここで自然がやられたら、生活の維持は不可能だろう。
 そこに、渡辺さんの家があった。

 部屋に入ると、仏壇にはま子さんの大きな写真があった。
 ふわりとした柔らかい顔で笑っている。
「山で山菜を採るのが大好きでね。春早くから、一緒に採りに行った。
 ふきのとう、タラの芽、ゼンマイ、ワラビ、コゴミ、秋は茸だったね。ここにはかなりの種類の茸があるんですよ。四季折々の楽しみがあった。
女房は特に山菜取り好きだったからね、自分は女房ほどじゃなかったけど、一緒についていった。ここでは、自然と一体にならないと生活できないんですよ。
 今は山は線量が高い。当分はダメだね。
女房は花と野菜を育てるのも好きでした。すべて自家製で、野菜は買ったことがなかったですね。仕事が休みの日曜なんかに、露地の野菜や、ハウスの花を作る。神奈川にいる孫に野菜を送ってやるのが楽しみでね。
今は野菜を買うんだけども、高くてね。ネギが一本100円以上する。ネギなんて、いくらでも取れたんで。
自分は山木屋の甲8区24世帯の区長をしてるんですよ。新年会から、共同の花壇の手入れや、秋の芋煮会、お寺や神社もあれば、小中学校もありますから、いろいろな行事があります。それを知らせて歩くのが役割です。
養鶏所の仕事をして、山菜採ったりする楽しみがあって、花や野菜を作って、一年のいろいろな行事があって……、自分ではごく普通の生活だと思っていましたね」
福島の自然と一体化して生きる「ごく普通の」生活。それが妻もろとも、根こそぎ奪われてしまった。
「裁判始めてみて、裁判にならないと話をする場すらもてない、というのが悔しくてね。提訴する前に交渉しようと広田先生が三度東電に足を運んだけれど、門前払いだった。今は広田先生の指示で必要な書類を集めています。とにかく必要な書類が多くて、時間がかかりますね。
 東電の態度には腹が立ちますね。裁判の上でなくちゃ話ができないというのはおかしい。東電は卑怯すぎる。
 女房みたいに亡くなっている人は数多くいます。事故さえなければ……
 一番の原因は原発事故ですよ。誰が見てもはっきりしている。それを認めない。あまりにもずるい。
 東電みたいな大企業なら、きちんと責任をとる必要があるはずですよ。それを……、大企業だから、余計そう思いますね。
 ところが、被害に遭っている人たちを、泣き寝入りさせようとしている。自分たちの責任を認めるのがいやだから、泣き寝入りをさせようとする。そういう態度は……」
 渡辺さんは東北人らしい穏やかな口調で話すが、さすがに厳しい口調になった。東電は地元の優良企業として信頼を集めていただけに、原発事故を起こしてからの手のひらを返したような豹変ぶりが、よりいっそう醜く見えるのだろう。
「去年(2012年)の11月から仕事を始めました。はじめは山木屋の除染の草刈りをしてたんですけど、今は町の除染をしています。
 山木屋では実験的に3箇所で除染をしたんだけれども、一時的に下がっても結局は元に戻ってしまうんですよ。周りの山が(線量が)高すぎてね。
 それでも、仕事はいいですね。いやなことを忘れますよ。避難生活では、昼間にやることが何もなかった。あんな苦痛はなかったですね。
 避難したのは、2号機のサプレッションプールが破裂した3月15日でした。14日の夕方2号機に水が入っていないというTVの映像を見て、ただ事じゃないと思ってね。とにかく眠れないんですよ。午前2時ごろから女房も起きてきて、夜が明けてから自分の受け持ちの部落の人に『逃げたほうがいい』と巡って歩いてから、避難しました。その時は女房もしっかりしていた。積極的に対応してくれました。ただ、避難先でも『戻れるの』という心配は強かったですね。
 3月21日にいったん帰ってきて、仕事を続けていたんですけど、そのあと計画的避難区域に指定されて、決められた避難所が遠かったので、アパート探しをしていた。自分たちは養鶏所の仕事をしていて、鶏が残っていましたから、殺すわけにはいかない。通えるところじゃないといけなかった。
 福島市にアパートが見つかって、6月12日からそちらに避難しました。養鶏所にはそこから通いました。そのころには山木屋が放射能が高いということはわかってましたから『戻れるの』という不安はいっそう強くなっていた。
 一番こたえたのは、夫婦で同じところに勤めてましたから『仕事がなくなっちゃう』ということでしたね。二人して仕事を失ってしまう。家のローンも残っていましたし。このころはまだ補償については何の話も出てきてなかった。
 女房にはアパート生活もこたえたようでした。ここは静かでしょう。どんなに騒いだって近所に迷惑はかからない。時々部落の人たちとカラオケやりましたけど、どれだけ騒いでも隣の家までは音が届かない。自分は町で生活したこともありましたが、女房はここ生まれ、ここ育ちで、他の場所での生活を知らなかった。
 暑くなる時期だったので、網戸にしていると、隣の部屋の話し声が聞こえる。そんな生活は、まったく想像もつかなかったんでしょうね。気を使って、気疲れしていた。どんどんやせて顔色が悪くなっていった。女房が気にしていることはわかってたんだけれども、電話がかかってくると自分も思わず高い声で答えてしまう。それでよく女房に注意されましたね。
 昼間、やることがないというのが本当に苦痛なんですよ。女房にしても、動いているのが普通でしょう。動いていないと調子悪くなる。それまでは息子二人との4人生活で、山ほどの洗濯物があって、毎朝4人分の弁当を作っていた。それすらなくなった。
 そうすると、いいことは考えなくなってくるんですよ。今後の不安。住宅ローンをどうすればいいのか、とか。
 だんだん外出がいやになってくる。うつになって、買い物にも行きたがらない。食材も選べない。
 山木屋の家では、自家製野菜を保存していましたから、料理といったら野菜中心でした。それをつつきながら晩酌して……、ところがその野菜を買わないといけない。買いたくなんてないですよ。高いし。
 まるっきり別世界に追いやられて、山菜を採る楽しみもなくなってしまって……」
 スーパーなどで「嫌な視線で見られている」などと言っていたのも、このころである。そして、前述したように、はま子さんがしばしば「山木屋へ帰りたい」と訴えたため、草刈りもかねて山木屋の自宅に一泊することにした。
 アパートから山木屋の自宅に向かう途中、川俣町の『ファッションセンターしまむら』に立ち寄った。幹夫さんははま子さんの気晴らしになればいいと思い「何でも買っていいよ」と言った。ところがはま子さんは幹夫さんに買うものを選んで欲しいと言った。自分で選ぶようにと言ったのだが、するとはま子さんは、色違いのまったく同じ服を6着購入したのだった。
「選んで、って言われたんだけれど、女性の服はわかんないし、下着なんかも並んでいるんで入りづらい。だから『買ってきたらいいべ』と言って車で待っていた。
 おかしいとは思ったんだけど、気づいてやれなかった。普通だったら気づくと思うけど、この時は自分も不安な状態で、余裕がなかった」
 翌朝、はま子さんは自らに火をつけることになる。

 はま子さんの、絶望の声を聞く。
 自らを育んだ自然と引き剥がされた、はま子さんの絶望の声を聞く。
 自分自身が自然の一部であって、生かされているものでしかないという自覚を欠いた人間の、おごりを知る。