核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(7)


 
石牟礼道子は、水俣についての作品のなかで、住民の悲劇について「文字のいらない世界と文字の世界との衝突」として捉え、いかに水俣病の被害者とチッソ側との交渉がすれ違ったものになったかについて書いている。
これは今回の原発事故でも、本質的な問題の一つだと思う。
むろん、渡辺はま子さんが「文字のいらない世界」に住んでいたなどと言いたいわけではない。
JCO事故と母のPTSDの問題で、10年以上文部科学省経済産業省との交渉に明け暮れていた僕は、それを「科学の世界とこころの世界の衝突」と言い換えることができると思う。
JCO事故の際にも、今回の原発事故と同じように政府の指導が遅れ、それが被曝者を増やす結果となった。この問題について、当時の科学技術庁と話し合っていたとき、担当課長が、
「国の指導が遅れたため被曝者が増えたかどうかについては、まだ計算されておりません」
と言い、被害者の会の代表だった父は直後に切れた。
 今回の原発事故で言えば、石牟礼の言う「チッソ側」というのは、文部科学省経済産業省の役人たち、それに東電の幹部たちなど、原発を推進してきた側ということができる。彼らは、自然をヒュレー、すなわち素材として、そして対象として見る。この場合、対象と自己の「こころ」の関係は切れている。だから彼らは、それをいかに操作的に利用するかを考える。
 その根底には、プラトン以来の自然を対象化して考える世界観がある。西欧由来のもので、自然をいわゆる「客観的対象」として「研究」しようとする態度だ。日本の教育でももてはやされてきた世界観である。
 対象と自己の関係が切れているとき、そこに対象そのものの「価値」は認められない。それは「マテリアル」でしかないからだ。「科学は価値中立的である」というお題目はここから生まれたといっていい。そして、その価値の空白に「経済的効果」と「効率」が滑り込んでくる。
 ところが、この人たちは自分の内臓ひとつ思うようにできない。身体というのは、海や山と同じように人間にとって「自然」に属するものだからである。
このタイプの人たちは自分の内臓すら「マテリアル」と考えがちである。その結果、例えば内臓が癌になって愕然とし「なぜ自分は癌になってしまったのか」と自問することになる。
そこで「それは、何らかの理由で遺伝子に変異が起こり、正常な細胞の分裂、増殖、老化、死滅というサイクルが乱されて、体が必要としない細胞分裂を起こして増殖し」などと科学的な説明をうける。それはこれまでこのタイプの人たちが判断基準としてきたものだが、それがこの際何の慰めにもならないことを知るのである。そしてこれまで自分が被曝者にやってきた「日本人の3分の1は癌で死ぬんだから、あなたが癌になったって何の不思議もない」という科学的説明を、今度は自分が受ける側になる。
それは科学的にはまったく正しいのだろう。しかしそれをこころを持った人に対してあえて説明する愚に、自らが直面しなければならなくなる。
その時、この人は自分が置き去りにしてきた「こころ」と向き合わなければならなくなる。
「核という呪い」などと言ったところで、原発事故以前の上述の人たちは「何を非科学的なことを」と歯牙にもかけなかったであろう。
 しかし今、核という呪いにもっとも深く呪われているのは、明らかにこの人たちではないか。外部電源の喪失から、注水の不能、水素爆発、メルトダウンメルトスルー、従業員、住民と環境の被曝、汚染水の問題、被害住民への補償、そして原発関連死による責任追及への訴訟対応と、次から次へと自分たちの能力を超える事態に直面し、翻弄され、疲弊し、倒れていかざるを得ないのは、いったいなぜなのか。
経済効率という言葉によって、地震という自然の営みを舐めきっていた人間は、自然から大きなしっぺ返しを喰らい、深く反省したかに見えた。しかしわずか2年もたたないうちに、また同じ道を歩み始めている。

一方で、水俣の漁師やはま子さんのように自然のなかで生きてきた人たちにとって、自然は意味をおびている。それは「素材」などではない。そして自分自身を、自分のこころと体を、このように生きて生成する意味をおびた自然の一部として見る。それがどのようにかけがえのないものであるかは、ここには書かない。そして、このかけがえないものを基盤として「生活」が営まれる。
こころ、は生活の中にある。
僕の母も同様だが、被災者には、自分の「生活の核」から、汚染によって引き剥がされたという強い思いがある。「生活の核」の喪失。その時に、こころが深いダメージを受けないはずがない。原発関連死の多くは、このときこころが受けた深いダメージを起因としている。そして死者は1000人を超えた。
このことは、原子力事故の被害想定に、人のこころを無視してきたのがいかに論外であったか、を論証する。
そして言うまでもないことだが、今後の原子力事故の被害想定には、真っ先にこの問題が検討されなければならないだろう。