核という呪いー南相馬編(1)

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どういうわけか南相馬に来ると酒を飲んでいる。これは、去年からインタビューをするたびに「ターキー」という料理のおいしい洋風居酒屋に入り浸ったためであろう。
今回もターキーを待ち合わせ場所にしていたのだが、なんとパーティーで貸切であった。南相馬の寒空の下、入り口付近でぽつんと待っていたインタビュイーの堀先生は、しきりに調査不足を詫びると、近くのイタリアン・レストランに連れて行ってくれた。
昨夏以来の再会を祝し、まずはビールで乾杯。
堀有伸医師は2012年4月から南相馬市の雲雀ケ丘病院に勤務する精神科医である。
堀先生は昨年から「みんなの隣組」という団体を組織し、地域の人たちと毎朝ラジオ体操をやり、その他おさんぽ会、読書会などを企画してきた。ラジオ体操と自殺防止というのが僕の頭の中でうまくつながらなかったのだが、「朝イチで、朝の光を浴びて運動する。それがいいんです」とラジオ体操の効用をとくとくと説かれると、こんなにいいことはないんじゃないかと思えてくるから不思議である。
その後ラジオ体操はどうなりましたか、とたずねると、
「いやあ、一月の途中で雪が積もって力尽きました。雪国の冬を甘く見てました」
と言って、堀先生は破顔された。
近況を聞く。
「お年よりは元に戻りたいんです。生まれ育った土地との一体感が非常に強いんですね。
で、働き盛りはこの南相馬をがんばって盛り上げていきたいと思っている。一方で、口には出しませんが、ここに5年〜10年根を張ってやっていって本当に大丈夫か、という不安を持っている。
 若い世代は数が減りましたね。きれいに若いほど戻ってこない。10年〜20年腰をすえてここでがんばれるか、と考えた末に出した結論でしょうね。
 一方で、放射能のことは気にする人が減りました。忘れやすすぎるというか、あまり急に油断するのはかえって心配なんですがね。むしろ意識は、補償や仕事など、経済的なことに向いていますね。
母親はどうしても子供のことが心配ですから、不安を訴えると『そんなこと言うな』とまわりから言われてしまう。町を盛り上げないと若い人が帰ってこないですから、線量が高くて不安だと言うことはマイナス材料になるんです。そんなわけで子供を持つ女性は、不安や心配で煮詰まって、つらい。
 お年よりは、子供や孫が離れていってさびしいんです。この間も、ギリギリまでがんばってたおばあちゃんが、息子夫婦が孫をつれて他所へ行ってしまったら、うつを発症してしまった。
 全部の世代がつらいんですね。
 勤労世代、特に中高年の男性は、頭数が減った分仕事が増えましたから、これはキツイです。役所の人なんて、自分も避難しているのに、避難している人の世話をしている。休む暇も、週末家族と遊ぶ暇もない。その上この状況がいつ終わるのか、先が見えない。うつが増えるわけですよ。
 それから、賠償金の格差というのもあります。
 南相馬は30キロ圏の内と外に別れていますが、大体は同じような体験をしてるんですよ。同じ思いを持っている。ところが30キロ圏内の人はお金をもらってますから、圏内の人が『つらい』と言うと、圏外の人は『なに言ってんだ。金貰ってんだろう』ということになります。しかも、やることがないんで、酒やパチンコにお金を使うと『バカなお金の使い方をして』と、また非難される」
 核という呪いの、人と人の間を引き裂くという性質が如実に現れている。
「分断ということで言えば、震災直後に短期避難をして、南相馬に戻ってきている人がいます。立派な判断だと思うんですが、ここでずっと頑張っていた人からすれば『お前一回逃げただろう』ということになってしまう。そこには日本的ナルシシズムの問題があると思います」
 2011年8月、堀先生は「うつ病と日本的ナルシシズムについて」(臨床精神病理第32巻2号)という論文の中で「日本的ナルシシズム」という考えを明らかにした。
 僕は専門学者ではないので雑駁な紹介になってしまうが、僕が理解した限りでは、それおよそ次のようなものである。
 堀先生はまずうつ病が悪化していく4つの例を提示する。共通しているのは彼らがいずれも自分の所属する会社や組織と一体化して献身的に働き、一時は周囲から高く評価されていたということである。
その後、たとえば管理職になるという形で、現場と一体化するのではなく管理するという立場に立ったことをきっかけに、それが心労になってうつを発症してしまう。ところが状況が変化し、医師からも職場から距離をとって体調を管理するよう言われているにもかかわらず、以前と同じように献身的に働こうとするのである。結局そのことで患者は次第に消耗し、周囲からの評価も下落し、症状も悪化してしまう。
 堀先生はこうした傾向を「自己愛的同一化」と呼びんでいる。このように、周囲が「ゆっくり静養してよい」というメッセージを発しているのに、それを無視してしまう理由について、
「患者たちは『自己犠牲的に所属集団のために献身的に自分が努力していること』、および『その努力によって所属集団が支えられていること』といった実感が失われることに抵抗していたと考えられる」
と述べる。そして、所属集団に情緒的に巻き込まれてしまうこうした傾向は日本文化の特徴でもあるとして、ルース・ベネディクト丸山真男、中根千枝、川島武宣木村敏加藤周一中村元らの説を紹介。これらの学者が、
「日本社会にはその成員に具体的な所属集団の活動に徹底的に関与することを求める社会的な圧力が存在しており、その活動内容には理論的な批判や反省が与えられにくい」
と論じていることから、堀先生は日本人のこうした心的傾向を「日本的ナルシシズム」と名づけ、精神分析的な考察を加えた上で、注意を促している。
 南相馬の復興でも、復興のため地域と一体になって献身的に頑張ってきた人から見れば、避難した人は思わず批判したくなるのだろう。逆に、一度避難してから戻ってきた人は、何らかの負い目を感じざるを得なくなる。しかしその結果自分の限界を超えて仕事を続けていれば、いつかは消耗し切ってブレイクダウンするのは目に見えている。
 堀先生は、必死に地元のために働いてきた人も、避難したといって負い目に感じてしまう人も共通の心性を持っていて、それに「日本的ナルシシズム」という名前をつけたのである。そして、組織に情緒的に巻き込まれてしまえば、結局潰れるのは自分なのだから、適切な距離を保つよう注意を促しているのである。
 これは、いわゆる「燃え尽き症候群」や中間管理職の自殺に見られるように、日本社会に広く見られる現象であろう。福島の場合は「核という呪い」がそれにさらに拍車をかける。
 一方で、先の集会でも指摘されていたが、被害は続いており、有効な解決策が取られているとも思えないのに、ここのところ福島に興味をなくしたかに見えるメディアや政治をどう見るか。
「私は北山修先生を尊敬しているんですが、先生の理論に『見るなの禁止』があります。日本神話で、イザナキが死んだイザナミを求めて黄泉の国まで会いに行く。イザナミに『見ないで』と言われたにもかかわらず、強引にその姿を見たイザナキは、妻が腐乱死体になっていたので驚いて逃げちゃった。その結果『すまない』という、いつまでも消えない罪悪感を抱くことになってしまう。これは『鶴女房』などの日本の説話にも共通して見られる構造です。
 でも、そこに踏みとどまって妻と話し合えば、別の展開があったかもしれないじゃないですか。日本の男はそこに踏みとどまれないんです。福島を見続けられない。その結果、現に存在するものを『なかったこと』にする。否認の構造ですね。
 でもこれは、ある意味でチャンスなんです。日本の東京に近いところでこういうことをやって、しかも解決しない。それを世界の中で注目し続ける人がいるわけです。日本人の精神的な弱点が、世界中にさらされ続ける。その苦痛は、逆にそうした精神性を乗り越えるチャンスでもあるわけです。試練だと思って、悩んでくれればいいんです。忘れたふりをしても、借金は増え続けるだけですから」
 日本は、大きな傷口を開けて立ちすくんでいる。
 自公政権は、それを丸ごと否認している。
 そして借金は増え続ける。