オタクとは誰か?-僕なりのゆるい結論

オタクとは誰かという問いに対する僕なりのゆるい結論。


これは「萌えの研究」の中にも書きましたが、完璧な定義というのはそもそも難しいんですよ。だいたい言葉というのは、人間がものを考えたり、コミュニケーションをしたりするために作り出した道具ですから。ペンチとか画鋲とかといっしょなんですね。道具なんてそもそも不完全なものですから。完全な道具が存在しないように完全な定義も存在しない。


ここで哲学屋上がりのノンフィクションライターはウィトゲンシュタインなんぞを持ち出すわけです。


彼の主要概念のひとつに「家族的類似」という言葉があります。たとえば「ゲーム」という言葉を定義するのは難しいでしょう。トランプもサッカーもゲームなら、子供が一人で壁にボールをぶつける遊びもゲームです。100万人がいっせいに水中クンバカやるのもゲームかもしれない。「これらのすべてに共通するものが存在する、そうでなければゲームとはいえない」なんて言ってたらそもそもゲームという言葉は使えないですよ。


そこで、むしろ「ゲーム」なり「オタク」なりを、一つの家族のように見てみたらどうか、というのがウィトゲンシュタインから導き出せる提案なんですね(と、僕は思ってるんだけど)。ゲームを定義せずにただ見ていくと、「これが絶対に共通している」ということはできなくても、さまざまな類似性を見て取ることができます。それはちょうど家族の構成員に見られるものといっしょです。たとえば体つきであるとか、顔つきであるとか、ちょっとした歩き方、気質、などなど、家族ってうまくいえないけどどこか共通するものを持ってるじゃないですか。この考え方を定義というものに援用すれば、定義をめぐる不毛な争いを避けることができるわけです。



「オタクとは誰か」というオタクの定義を巡る消耗な争いも同じで、オタク内部では「○○はオタクじゃない」みたいな吊るし上げが良くあるようですね。難しい問題ですが、僕はこれを「家族的類似性」という概念でもう一度考え直せるように思うのです。


人が誰かをオタクだというとき、もちろんいろんなタイプがいると思うんだけど、そしてその共通性は厳密に定義できないんだけれど、家族の構成員に見られるようになんとなく類似性を持ってると思います。僕は修行不足でまだそれが十分に見えないんですがね。そしてそういう観点から言うと、水木しげるはオタクだ、というのが僕のゆるい結論なのでした。


そしてこの問題で僕が今一番興味があるのが、村上隆という人なのです。



おお、そういえば「萌えの研究2006」を連載している「言語道断」という雑誌が本日発売。この雑誌はなんと2号で、つまり今号で廃刊です。うはははは、3号雑誌ってのは良くあるけどねえ。「消えた雑誌」の仲間入りです。因果は巡るねえ。なんかの間違いで今後値がつくかもしれませんから買いですよ(なんて売り方だ)。廃雑誌蒐集家の皆様もお見逃しなく。大泉は栃木の小1女児殺害事件(吉田有希ちゃん事件)の現場ルポを書きました。はたしてオタクの犯罪や否や!?というわけでコンビニでどうぞ。