核という呪い ブログ版(2)(3)


                 (2)
 運が悪いことに、と言うべきだろうか、僕(筆者・大泉)の父と母が経営する小さな町工場が、JCOから約80メートルのところに建っていた。
 事故がおきた1999年9月30日、僕は東京・墨田区の事務所にいた。この月はマンガ家の水木しげると3週間ほどオーストラリアの先住民・アボリジニを訪ね、彼らの精霊(水木しげるに言わせれば妖怪)について取材する旅をしていた。因縁めくが、アボリジニたちと付き合ううちに、彼らの聖地であるカカドゥ国立公園のジャビルカが、関西電力に売るウラン採掘のために汚染されている、ということがわかった。彼らの必死の訴えを聞いて、これは日本の原子力産業にきちんと問題を突きつけんといかんな、などとえらそうなことを思いながら帰国したのである(詳細は『水木しげるの大冒険 精霊の楽園・オーストラリア』祥伝社)。
 日本に帰ると、井上陽水のライブレポートの仕事が待っていた。9月29日が全国ツアーの初日だった。ライブの取材が夜だったので、両親と同居している茨城の家には帰らず、東京の事務所に泊まった。翌30日は外向きの仕事がなかったので、はるかに締め切りから遅れている原稿を片付けるために、ぱっとしない気分でワープロに向かっていた。
 夕方の5時ごろだったと思う。珍しく妻から電話がかかってきた。というのも、彼女は夫があちらこちらほっつき歩くのに慣れているため、めったに自分からは電話をかけてこないからである。
「お父さんの工場の近くで放射能漏れの事故があったんだって。六国(国道六号)が通行止めになってるって」
放射能漏れの事故!? 何でそんなものが親父の工場の近くで起こるんだ。しかも国道が通行止めになってるって? どんなレベルの事故だ。
 次に反射的に思ったのは、5歳の一人息子のことだった。親父の工場と自宅は5キロも離れていないが、息子の通う保育園はさらに東海村よりにある。
 しかし息子は何事もなく保育園から帰宅していた。胸をなでおろした一方、事故の内容や規模によっては息子も病院に連れて行かなければ、と考えていた。いったいどのくらいの規模で放射能汚染が広がっているかわからないからだ。放射性物質はまったく目に見えない。目に見えないというのは実に厄介だった。
 午後7時過ぎ、自宅に電話する。妻の説明によると、いったん家に帰ってきた父と母は、被曝検査を受けるために東海村の舟石川コミュニティセンターに向かったという。そして午後10時、やっと父母がつかまった。
「ほら、うちの目の前にある大きい工場だよ。住友金属なんとかって書いてあったけど、まさかそんなもの扱ってるとは思わなかった」
 JCOの前身は、昭和55年に住友金属鉱山から独立した日本核燃料コンバージョンであり、実態的には住友金属鉱山の一部である。父は住友金属鉱山時代の看板を記憶していたのだろう。
 父の話では、午後四時過ぎに役場の人が来て、事故現場から350メートル以内の住民には避難要請が出ているので、舟石川コミュニティセンターに行くように言われたという。ところが父は、自宅は日立市にあるので、帰らせてくれと頼んだ。それなら警邏の警官に事情を話して通ってくれ、と言われ、午後五時過ぎに自宅に帰ってきた、と言うのである。
(なんでそのまま帰って来るんだよ)。電話のこちら側で僕は頭を抱えていた。核物質で汚染されている可能性のある人間や車が、検査も洗浄もせず家に帰ってきてしまったら、二次汚染が起きてしまうではないか。父は田舎の町工場のオヤジだからそういう知識がないのはやむをえないとして、どうして役場の人間や警察は検査もせずに汚染された人間を家に帰してしまったのか。
 このようにして、生活の中に目に見えない核物質が入り込むという、大泉家の不気味な日常が始まった。

               (3)
 コミュニティセンターというのは昔風にいえば公民館であるが、そこで何が行われていたかというと、サーベイメーターというものを使って住民がどのくらい被曝したかを測っていたのである。のちに僕はこの事故で被曝した何百人という人から話を聞くことになったのだが、ある人はこの時メーターの針が振り切れてしまったのだと言った。
「それで、隔離されたんですか」
「係の人が話を聞きにいって、帰ってきたら『上着をビニール袋に入れて、焼くか洗濯すれば大丈夫、心配ありません』と言われて……」
 どのくらい汚染されているのか、その上限もわかっていないのに、「洗えばOK」としてしまったのである。信じられない話だが、事実である。しかも、こういう経験をしたのは一人や二人ではない。
 事故当時68歳だった寺門博さんの場合、そういう検査をしているとわかったのが事故の二日後の10月2日だった。仕事は大工さんで、事故当日はJCOから約700メートルの地点で終日屋根に上って作業していた。
この人は事故の翌日から極度の体調不良におちいった。吐き気がひどく、起きるとふらふらする上に、涙が止まらない。のどの調子も悪かった。
当日着ていた作業衣を持っていくと、メーターの針はいったん大きく触れた後、ほぼ中央で止まった。これが事故当日だったらどうだったのか。
担当者は「何度か洗ってすすげば大丈夫です」と言っただけだった。そんな服は気持ちが悪く、捨てるしかなかった。
さらに二日後の10月4日、茨城県による健康診断を受けた。
通常、被曝すれば骨髄機能が抑制され、白血球値や赤血球値が減少し、ヘモグロビンが低下して貧血を起こす。寺門さんは十年以上にわたって毎年血液検査をしていたので、自分の平常値を良く知っていた。白血球値は6500/mm³前後、赤血球値4500/mm³前後、血中ヘモグロビン量14g/dl前後だった。
ところが、このときの結果は、白血球値が4900/mm³、赤血球値が3810/mm³、血中ヘモグロビン量は11.8g/dlだった。血中ヘモグロビン量のところには「要医療」のマークがついていた。おそらく、彼はこのとき軽い貧血状態で、そのために起きるとふらふらしたのだろう。この状態はおよそ2週間続いたという。
ところが、茨城県から送られてきた検診結果の通知表には、「放射線関係項目の異常はありませんでした」と記入されていた。それを見たかかりつけの医者はあきれ「これはおかしい」と言った。
事故後体調異常を訴えた人は寺門さんだけではない。たとえば、寺門さんが屋根に上がって作業していた日、その家にいてお茶出しをしていた主婦も深刻な体調不良を訴えていた。
JCO周辺住民221人の健康実態調査を行った阪南中央病院によれば、有効回答数208名のうち、およそ100名の人たちが何らかの身体の不調を訴えている。
しかし、事故関係の健康診断では「JCO事故による住民の健康への影響は発見されなかった」と記者発表されるのが通例となった。実際、僕自身あちらこちらの健康相談所に行ったが、窓口の医師に「健康への影響はありませんから安心してください」と言われるのが常だった。
そこに、目に見えない大きな力が働いているのは、あまりにも明らかだった。