核という呪い ブログ版(4)(5)(6)

                    (4)
 僕の家では、まず母が倒れた。
 九月三十日、事故当日の深夜三時頃から(正確には十月一日午前三時)、母は激しい下痢に襲われた。どういう感じだったかを後で聞いたら「お腹の中のものがすべて出ていってしまう感じ」と言った。この激しい下痢は五日間続いた。同時に、口内炎も現れた。周辺住民の何人もが、事故後口内炎やのどの痛みを訴えている。
 一人息子であるので、僕はこの人のことを子供の頃からよく知っている。女性にありがちな便秘体質の人で、僕が大学生の頃、冷蔵庫に放置してあった牛乳を見て、「腐った牛乳でも飲んだら出るかしら」などと言った人である。従ってこの時、身近な人間ならばどんな異常なことが起こっているかをきちんと気づくべきだったのだ。
 この後大泉工業は再開されたが、あれほど働き者で仕事好きだった母が仕事に行こうとしなくなった。父は、工場の主戦力である母が動かないので少しボヤいたようだ。体調が悪いのだろうと思い、家族はあまりそのことに触れなかった。
 外から見ていると、母はひどい倦怠感に襲われているようで、体を動かすのがいかにもおっくうそうだった。たいていは、パジャマ姿のまま居間で横になっている。
 なぜ母は倒れているのか。
 JCO事故のせいだろうというのは一番初めに考えた。ところが、安全宣言が出されて以降、国は一貫して「今回の事故は健康に影響するようなものではない」というキャンペーンを張りつづけていた。被曝問題には全くシロウトであった大泉家には、それを否定する材料がなにもなかった。僕は東海村に設けられた何箇所かの相談窓口で専門家といわれる人に話を聞いたが、みんな「私は今回の事故の何倍も被曝しているけど、元気に働いてる」と言った。母は僕の報告を聞くと、
「これは被曝のせいじゃないのね」
と冷静に言った。
 では、なぜなのか。
 十月の末頃から、母は胃の痛みを訴えるようになった。 
 十一月のはじめに、僕の息子の運動会があった。孫の顔見たさにジジババたちが集まった。妻の父・つまり僕の義父は内科医で、母のホームドクターのような存在だった。義父は母があまりに痩せていたので驚いたようだ。食欲もほとんどないようだったから、当然と言えば当然だった。義父は、すぐ病院に顔を出すようにと言った。
 11月16日に、母に付き添って病院に行った。母は久しぶりに大嫌いな胃カメラを飲むことになった。僕も体質的に同じなのでよく分かるのだが、カメラを飲みこもうとしてもすぐ吐き気がこみ上げ、ゲーゲーやることになる。従って胃カメラを飲むという行為は、拷問に近いものだった。しかし、母は覚悟を決めていたようだった。
 僕は廊下のソファに座って待っていた。
 検査の結果が出ると、義父は「こりゃ監督不行き届きだったな」と言った。潰瘍が三カ所で活性化し、喀血寸前なので、すぐ入院して欲しい、と言う。
 母は十年ほど前にも胃潰瘍で入院したことがあった。それ以来、この病はなりを潜めていたのだが……。
 なぜ母の胃潰瘍はこれほど急速に進んだのだろう。国が言っているように被曝の影響でないとするなら、考えられるのは精神的なものだろう。原子力事故を身近に経験したというストレスが、母に重くのしかかっているのかもしれない。
 いずれにせよ、母が倒れていた原因は、この胃潰瘍の悪化によるものだということがハッキリした。原因が判れば、それを治療すればいいだけの話だ。
 十一月十八日から十二月五日まで、母は胃潰瘍の治療のため入院した。退院時に撮った胃カメラでは、潰瘍はほぼ消失していた。
 だが、退院後も、母の様子は入院前と変わらなかった。一日中、パジャマ姿のまま、寝たり起きたりの生活だった。
 これは、何なのだろう。
 胃潰瘍はほぼ完治している。尋ねても、胃に痛みはないという。
 母ののろのろとした動きを見ていた僕は、大学時代の友人のことを思い出した。うつ病になってしまったその友人の動きも、同じようにのろのろとして、生命感がなかった。
 ひょっとすると母もうつになっているのかもしれない。そう思った僕は、近所にある精神科を受診することをすすめた。母は精神科というものにかかったこともなく、かなり抵抗があるようだったが、他によい方法も見当たらない。
 病院に行ったのは、十二月十日のことだった。医師を前にすると、母はとりとめのない口調で、やらなければならない仕事がたくさんあって忙しいというのに、体が思うように動かず、仕事に行けないこと、食欲のないことなどを訴えた。はっきりと記憶にないのだが、JCO事故や被曝の状況説明などは僕がしたように思う。
 医師の診断は「うつ状態」というものだった。抗うつ剤と入眠剤が処方されたようだった。

 しかし、この診断も結果的には正しいものではなかったのだ。2002年6月に症状が明らかになるまでの2年9ヶ月の間、家族は母が何にこれほど苦しめられているのか模索することになる。

                   (5)
 この間、国、特に原子力問題の監督官庁であった科学技術庁はどう動いていたのか。
 京都大学小出裕章氏らのグループが、報道で放射能汚染についての言及がないのを不思議に思って、十月三日に事故現場近くの歩道付近のヨモギの葉と土壌からサンプルを採取、翌4日に測定したところヨウ素131などの放射性物質を検出した。ところが、膨大なデータを持っているはずの科学技術庁からは何の発表もない。国がデータを出してきたのは、事故から20日以上も過ぎてからだった。
「私たちが一番初めだったのかといえば、実はそうでもなくて、原研は私たちよりも丸一日前に測定していたし、それでも科学技術庁はそれを握りつぶしていたのです」(「東海村ウラン加工施設での臨界事故を検証する!」小出裕章講演会報告書)
 科学技術庁は原研や核燃料サイクル機構が測定した膨大なデータを公開せず、秘匿していたのである。
 科学技術庁の打った手はそれだけではなかった。
 12月15日、突然のように科学技術庁は「原子力損害調査研究会」というものの中間報告を行った。これは、今回の事故の被害に対する賠償金の支払いについて、あらかじめ専門家を集めて基準を決めました、というものであった。しかしそれは、関係者の誰もが目をむくような内容だった。
 まず、東海村の農産物などで激しくなっていた「放射能汚染されているから買うな」という風評被害である。農家や農協の被害は激しく、結果的には、通常レベルの戻るまでは3年以上必要だった。ところが、科学技術庁は被害を1999年の10月と11月分、つまり2か月分しか認めなかったのである。冬には東海村名産のかんそう芋が売り出されるため、まさに翌月の12月から莫大な被害が予想されたのだが、それらはすべて無視された。
 健康被害については、被害を訴えた人間が「放射線または放射性核種による放射線障害であること」を立証した場合だけ認める、というものだった。中性子線被曝に関しては最先端の科学者でもわかっていないことが多いというのに、被曝した人間にそれを証明しろというのだった。実質的には不可能である。つまり健康被害については金を払うなと国がJCOに命じているのであった。
 また、このような大規模事故につきものの、PTSDやショックによるうつ状態など「心の被害」については「特段の事情がない限り認められない」として切り捨てている。
これらはなによりも、常に危険なイメージがつきまとう原子力産業が「安全」であり、地域住民に健康被害を与えていないのだと主張したいための措置であった。もし補償金を支払ってしまえば、日本の原子力産業が民間人に健康被害を出したことを自ら認めてしまう結果になる。それはこの産業の国際的な面子がつぶれるということでもあり、今後の原子力プラントの海外への輸出や、国内の原子力の推進にも大きく影響を及ぼすという判断があった。また、次の事故のことを考えた科学技術庁が、自分たちの傘下にあり天下り先でもある原子力関連の企業を、補償金の支払いによる弱体化から守ろうとするものでもあった。いつものことではあるが、官僚がもっとも心を砕く省益によって導き出されたもので、被害者を救済しようという視点はまるで欠如していた。
 結局のところ、もっともおそろしいのは霊などではなく、生きた人間なのだった。
 
                  (6)
 
 次に体調の悪化を訴えたのは父だった。
 もともと父には「紅皮症」という皮膚病の持病があった。皮膚に赤い斑点ができ、痒くてたまらなくなるという病気だが、その症状がさらに悪化したのである。赤い斑点の下に黄色い膿のようなものがたまり、かゆくてたまらないというのだ。かゆみのせいで眠れず、十分な睡眠が取れない。結局この症状は完治せず、2年後の2001年3月、父は大泉工業を閉鎖することになる。
 しかし、体の不調を訴えているのは、何も僕の両親だけではなかった。
 JCOのもっとも近くで働いていた建設作業員は、事故発生を知らなかったのに、二人が同時に激しい頭痛を感じ、「頭が痛い」と言い合っていたという。異臭を感じた人。吐き気を感じた人や実際に吐いてしまった人。その日の夜から全身が熱くなり、翌日から全身を切り刻まれるような痛みに悩まされた人。やはり事故の夜から甲状腺障害やアレルギーが噴き出した人。体に赤い斑点や黒い斑点が出た人。全身のだるさ、のどの痛み、湿疹、食欲減退、鼻血、異常発汗など、書いていけばきりがない。
 父があるテレビ局の取材を受け、それが放映されたことをきっかけに、心身にただならぬことが起こっていると感じている人たちや、近くの幼稚園、小学校(現場から500メートル近辺)で被曝した子供たちを持つ母親たちが父の工場に集まるようになった。これがのちに「臨界事故被害者の会」になる。この名前には、国は無視しようとしているが、臨界事故には確かに被害者がいるのだ、という気持ちが込められていた。また、被曝させられた子供の健康を心配して、さらにたくさんの母親たちが集まるようになった。国や自治体に相談しても「健康には影響がない」という答えしか返ってこないため、彼女たちの不安はかえって強まるばかりだった。
 国は被曝した地元住民の不安に対処するために、茨城県に依頼して年に一度健康診断を行うと発表した。2000年の4月から5月にかけて行われた健康診断には、不安を抱えた多くの母親と子供たちがつめかけた。それは茨城県が行う健康診断だったが、どういうわけかそこに科学技術庁の官僚たちが現れた。母親たちはその時の様子を次のように書いている。

科学技術庁のスーツ姿の中年男性の言葉――
「隣町からなぜ東海村の会場に来たのですか?」(注・JCOが村外れにあるため、多くの隣町の子供が被曝した)
「どんな書類を見てきたのですか?」
「詳しい説明は受けてきたのですか?」
「今回の相談は不安な人のために、気休めのためにするものなのにどうしてこんなに集まるのか?」等等。
医師――
「99.8%絶対にガンにはかからないから、今回は見送って来年受けたらどうですか」
会場の受付担当者――
「○○小の児童がなぜ東海村に来るのですか」
「何人(相談)するんですか」
「子供は相談には連れてこなくても良かったんですよ」
「相談しないと診断が受けられないわけではないんですよ」
「来年もまたやるのに」
「子供の血液検査はしないのですか」という父兄の問いに対して――
「血液検査をするんですか? 子供が痛がるからしない人もいますよ。0.5ミリシーベルト以下の被曝ですから大丈夫ですよ」
「子供の血を採るのは体に良くないからやめたらどうですか」

これらの態度を目の当たりにした母親は次のように述べる。
「勿論、不安に対する説明と暖かい対応をしていただいた、という声もありましたが『高いところから突き落とされるように感じた』という声のほうが多かったです。
専門家として『血液検査は必要ない』という見解を持つにしても、現実に心配している母親に対しては、もっと品位ある態度で対応してほしかった」
 母親たちはあまりにも冷酷な彼らの態度に愕然とした。しかし僕にはむしろいぶかしい思いの方が強かった。
ここまで必死になって彼らが隠そうとしたものは、いったい何なのだろうか。