ダメな宗教の条件

 前回の続き。
 オウムの体験修行をしていた頃「よく洗脳されませんね」みたいなことを言われたのだが、それもそのはず、僕は徹頭徹尾宗教としてのオウムを評価していなかった。
 「ダメな宗教」としか思っていなくて、そこになんでこんな善人が捕らわれていくのか、ということに興味があった。


 宗教系ライターの経験から、まずダメなのは「予言」と「超能力」を売り物にするところである。予言という意味ではエホバの証人がそうで、30年おきぐらいにハルマゲドン予言を起こしては外し続けている。麻原は1997年は「真理元年」になり、自分は日本に君臨すると予言していた(笑)。また、オウムが超能力を売り物にしていたのは周知の通り。


 鎌倉時代に活躍した明恵にも不思議なことがよく起こったようだが、彼は、「それは仏教の修行をすれば自然に起こることで、別にたいしたことじゃない。くだらないことで大騒ぎするもんだね」と述べている(「伝記」より。拙訳)。まったく相手にしていない。


 ラマナ・マハルシはというと、こうである。


質問者:テレパシーのような能力を得るのは良いことではありませんか?

マハルシ:(後半)何のための超能力なのか? 超能力者になろうとする人は自分の力を他の者たちに誇示して、賞賛を求めているのであり、賞賛が得られなければ幸福にもなれないだろう。そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされる。彼は自分よりも高い能力をもった者に遭遇することさえあるだろう。それは嫉妬を生みだし、さらに不幸を招くだろう。
 どちらが本当の力だろうか? 虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か? 平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)である。(「あるがままに」より)

 これなど、麻原の転落の本質を見事に突いていると言っていいだろう。


 「最終解脱者」という自称も麻原のダメさの象徴で、自分で自分を持ち上げる最低さである。ちゃんとした宗教者は、存在しているだけで他人が勝手に聖者と言い出す。しかもそれにとらわれない。


 早逝したが、脱カルト研究会の初代代表で、僕が個人的に親しかった高橋紳吾先生は、ダメな宗教の条件として「法外の金を求める」「生理的剥奪をする」という2点を挙げていた。これはそのまま麻原教・オウムに当てはまる。つまり僕的に言うと、麻原にはダメな教祖のすべてが詰まっていたのである。そんな宗教に洗脳されるはずがない。


 そんなわけで、オウムの教義にも、修行にも、神秘体験にもまったく興味がなかったのだが(そんなことは勝手に起こる。そしてそのすべては非科学的である。すなわち検証不能である。)、そのダメな教祖を信じる信者はというと、これが非常に興味深かった。
 鰯の頭も信心から、とはよく言ったものである。これは僕の個人的な見解だが、教祖への帰依が起こっているとき、そこでは実は自分の中の「大いなるもの」への帰依が起こっているのである。信者はそれを外部に投影しているに過ぎない。だからその対象がどんなにダメな教祖でも、鰯の頭でも、そこに救いが生じる。
 したがって本当に神聖なのものは、信者の心に眠っているもの自体なのである。ただ単に投影しているだけだということを理解しないので、あんなアホ教祖のいうがままにサリンをまいて、殺人という取り返しのつかぬ大罪を犯してしまうのである。
 おそらく、あのアホ教祖と関わらなければ、すばらしい生涯を送った人が大半であろう。ある意味で、悪霊にとりつかれたような物である。まあそのアホにも、アホになるだけの理由はあったのだろうが。


 そのような意味で、いまだアレフに残っている人たち、特に荒木浩さんとは久しぶりに話をしてみたいのだが(以前インタビューしたときも、その人間性のすばらしさに驚かされた)、なかなか果たせないでいる。
 また「麻原彰晃を信じる人びと」という本の中で「西山さん」という仮名で紹介した外報部の人もすばらしい人だった。彼は脱会し、その後禅僧になったそうだが、やはり再会を果たせないでいる。もしこのブログを読んでいたら、メアドはプロフィールのところに書いてあるので、ぜひ連絡ください。