核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(4)

 広田弁護士の事務所は、いわき駅近くにある、赤みがかった色の屋根のかわいらしい平屋建ての家であった。人気の法律事務所であるらしく相談者が次から次へとやってくる。待合室には表彰状が飾ってあり、その多くは廃棄物処理処分施設の建設に反対する住民訴訟のものであった。環境問題、特に産廃問題に詳しい人らしい。
 気になっていたので、印紙問題がどのように解決したのかをまず尋ねた。すると、最高裁まで争ったが、渡辺幹夫さん以外は認められなかった、ということだった。同じように原告となった渡辺さんの三人の子供の分は認められなかったらしい。
 現行法でも生活困窮者には訴訟費用の一時的免除が認められている。これを「訴訟救助」と言うが、福島地裁はそれに基づき、訴訟救助の対象に世帯収入が月額23万円以下という条件をつけた。
「結局最高裁は息子さんらの訴訟救助を認めなかった。最高裁の常套手段です。『最高裁の判断すべき事柄ではない』と言ってね。しかし原発事故の避難者は家を追われ、努力のすべては生活の維持に当てられている。それを考えたら、裁判所は自らの体制自体について根本的な改変を考えるべきです。あまりに一方的な決定で、胸に手を当てて考えてみろ、と言いたい」
そして、これからの訴訟に対する影響が大きいのだ、と言った。たしかに、今後原発事故避難者の訴訟が多く見込まれる状況で、費用の問題は大きなウエイトを占める。僕たちが裁判をやったときには全国からカンパが集まった。それがなければ裁判を続けることはできなかったと思う。現在、これだけ訴訟が多発している状況では、カンパ集めもままならないだろう。
 
なぜ、渡辺はま子さんは、焼身自殺という苛烈な手段を選ばなければならなかったのか。
この点について、かつて二人の精神科医に分析してもらったことがある。

一人は、複雑性PTSDの専門家である末田耕一先生。先生の意見を紹介する前に、複雑性PTSDという聞きなれない用語について説明しておく。
一般のPTSDは、死を予感させるような圧倒的な体験によって通常の記憶と異なる外傷記憶が形成され、それが本人の意思とは無関係に繰り返し侵入してくることにより、症状が形成されるというものだ。
この体験は統合されることを求めているわけだが、体験が圧倒的過ぎて本人の自我はそれを自分の体験の体系の中にうまく統合できない。そこで体験の方が何らかのきっかけを得て(たとえば母の場合は臨界という言葉やJCO,JOCなどの関連語)侵入してくる。
この時ものすごい不安感が起こり、それが症状になる。
阪神大震災地下鉄サリン事件などは、たしかに大災害だったが一度きりのものだった。こうした一過性の限局された体験から生まれるPTSDは、単純型PTSDと呼ばれている。
ところが、このような外傷体験が一過性でなく長期反復的に起こる場合がある。たとえば親による児童虐待のように繰り返し行われるものや、長期にわたる戦争体験などだ。この時患者は、不安症状ではなく、解離症状(健忘や多重人格など、記憶障害が中心となって引き起こされるもの)を中核としたより重篤で多彩な症状を示す。これを単純型PTSDと区別して、複雑性PTSDと呼んでいる。
 はま子さんのケースについて、末田先生が着目したのは、「うつにしては被害妄想が出ている」ということだった。
「『私たちが避難してきた人間だから、他の人から嫌な視線で見られている』『私が田舎人間で服装がおかしいから、みんなが私のことを見る』などという妄想が出ていますね。
教科書を読めばわかりますけど、本来のうつ(いわゆる内因性うつ病)であれば、このような妄想は出ません。むしろ(複雑性PTSDの)解離性の妄想に見えますね。
 もうひとつは、これだけの被曝地帯にいたのに、この人は被曝の恐怖について何も言っていないんですよ。
 本当に怖いことについては、逆に言えない。PTSDには非常によくあることなんです。この全く触れられていない点について、なぜ語られないか、ということを分析する必要がありますね。愚痴の部分すら欠落している。愚痴が言えない、というのは、それだけダメージが大きい、ということではないでしょうか」
 被曝については、はま子さんが本当に気にしていなかったのか、それともあえて口を閉ざしていたのか、ご本人が亡くなってしまった以上なんとも言えなくなってしまった。ただ、これだけの被曝地帯に事故後3ヶ月近くいたわけだから、全く恐怖を感じなかったということは考えにくい。それが言葉に表れていないとすれば、何らかの形でその恐怖を無意識に追いやっていた可能性はある。
 素直に考えれば、それがいわゆる反応性うつ病心因性うつ状態)であれ、末田先生が主張するPTSDに伴うものであれ、抑うつ症状が起こって自殺にいたったことは間違いないだろう。僕が驚いたのはそれが焼身自殺という形を取ったことであった。
 うつの自殺は失敗しにくいといわれている。それは死によって限りなく続くかに見える苦しみからの開放を求めるからである。しかし、なぜ自らの体を焼いてまで死ぬ必要があったのだろうか。
「ひとつは、薬物などでは死ぬことに失敗する可能性があったからでしょうね。しかし、焼身というのは確かに普通の感情状態ではできない。わたしはこの方には『恐怖感の解離』というものを感じますね」
 解離性障害の中核的な症状のひとつに、現実感の喪失がある。離人感、などとも呼ばれるが、フィルターを通してものを見ているように感じたり、自分が外部の傍観者のように感じたりする。極端な現実感の喪失という症状が起こっていて、しかもうつによる自殺への衝動が強ければ、それがこのような死に方に結びつくことも可能ということなのか。まさかこのように説明できるとは思わなかったが。
 末田先生は一貫して、はま子さんには複雑性PTSDによる解離性障害がおこっていたと見ていた。

核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(3)

 2012年11月20日午後1時20分、福島地裁一号法廷。
 平成24(ワ)第102というのが、渡辺幹夫さんが起こした裁判の名前である。裁判の取材に行くといつもへんてこだなと思うのであるが、これはこれなりに裁判所的な合理性があるのであろう。今日はその、第2回目の公判。
 傍聴席に座っていると、1時25分に渡辺幹夫さんが現れた。中肉中背の穏やかな表情の人だ。一分ほど遅れて広田次男弁護士が現れる。こちらは予想どおり正義感が強そうな人。白髪交じりの髪を短く刈り込み、口をへの字に曲げた一徹な弁護士、という印象である。

 福島で原発事故が起こった翌月、僕は新聞社から依頼を受け、JCO事故での経験について書いた。原稿のラストはこうだった。
「母の事例でも明らかなように、心の被害は目に見えづらく、証明することも困難である。したがって国は、複数の医師の診断書があれば認めるといった、比較的簡素な証明で補償を認めるべきではないか。心身の被害の上に、さらに裁判などの苦痛を被害住民に課してその傷口をえぐり出すようなことは、絶対にあってはならない。」
 自分が「絶対にあってはならない」と書いたことが、起こってしまったのである。
渡辺さんははじめ裁判沙汰にするつもりはなく、依頼した弁護士が東電に交渉に出向いたという。しかし、東電の対応は門前払いであった。結局のところ、やむにやまれず訴訟を起こすしかなかったわけで、それは僕らもそうだった。いずれにせよ、この裁判の取材は何より最優先にするべきであった。
 ところが、間抜けなことにこの裁判が行われていると気づいたのは、第一回公判が行われた一ヶ月もあとだった。しかも、やはり同じようにこころの被害を取材していたフジテレビ報道局の岡田宏記さんらのグループから教わるというていたらくである。印紙の問題があったので訴訟の開始は遅れるだろうと油断していたのだ。そんなわけで、第2回公判からの法廷取材になってしまった。
 原告の主張は、はま子さんが原発事故による避難が引き起こした重度のストレスからうつ病にかかり、それが原因で自殺した、というものだった。実にシンプルであると同時に、今回の原発事故による自殺者の典型であり、彼らを代表する主張であった。
 
渡辺夫妻の家は川俣町の山木屋地区にあった。
 この地域は原発から30キロ以上離れていたので、原発事故当初は避難地域に指定されなかった。ところが後に非常に放射線量が高いことがわかる。NHKの『ネットワークでつくる放射能汚染地図』取材班が「死の谷」と呼んだ赤宇木地区や、飯舘村でもっとも汚染のひどい長泥地区からも数キロしか離れていない。このため、飯舘村などと共に、2011年4月11日に計画的避難地域に指定された。
 渡辺夫妻は事故後3月15日から20日まで磐梯町の町民体育館などに避難していた。そこでは避難者が毛布一枚で雑魚寝するというような状況だった。3月21日にいったん自宅に戻って、不安を抱きながら職場である八二木農場(養鶏)に夫婦で通い、自宅近くにあるビニールハウスの世話をしていた。ところが、計画的避難区域に指定されたことにより、自力で避難場所を探さなければならなくなった。川俣町が用意した避難所はあまりに遠く、八二木農場に通うことができなかったからである。渡辺夫妻は福島市などでアパートを探したが、すでに避難者たちが入居を決めており、部屋探しは難航した。このため、避難指示が発令された4月22日以降も、渡辺夫妻は自宅に住み続けた。
 原則として計画的避難区域からは立ち退かなければならないことになっていたため、山木屋地区内ではパトカーによるパトロールなどが行われていた。渡辺家にも警察官が訪れ、身分証の提示を求めたり、早く避難するように言われたりした。そのためはま子さんは、パトカーを見るたびに、また自分たちが悪者扱いされるのではないかと怖がるようになった。
 このころからはま子さんは食欲が無くなり、体重も減少、次第に顔色が悪くなっていった。
 6月に入ってようやく福島市内でアパートを見つけ、12日に引っ越した。ところがここから、はま子さんの症状はさらに悪化していく。
 夫婦二人での慣れないアパート生活である。山木屋の自宅とは違い、隣室の住人に気遣いながら生活しなければならない。それが夫妻、とりわけはま子さんにとってかなりの精神的な負担になっていた。はま子さんは気遣いのあまり、夫に対し何度も「話し声が大きい」と注意するようになった。また、夜になっても眠れないと頻繁に訴えていた。
 6月17日、夫妻の働いていた八二木農場の閉鎖が決定し、23日まで職場で残務処理を行った。6月24日以降、職を失った二人は、アパートの中で一日中過ごすという暮らしになった。はま子さんが外出するのは買い物のときだけだった。
 しかし、買い物に出たはま子さんにも異変が起きていた。
「私たちが避難してきた人間だから、他の人から嫌な視線で見られている」「私が田舎人間で服装がおかしいから、みんなが私のことを見る」などと頻繁に言うようになった。また、買い物をしにスーパーに行ったはずなのに、店内を一周しても買い物カゴが空っぽのまま戻ってきたり、買うものが決められず幹夫さんに相談したりすることもあった。
 一方、アパートの中でも、はま子さんはテレビすら見ずに絨毯の上で寝そべって過ごすことが多かった(ここを読んだとき僕は臨界事故後の母を連想した。確かにテレビすら見ようとしないのだ)。こうしたはま子さんの様子を見かねた幹夫さんは、何度も散歩に行こうと誘った。しかしはま子さんはそれに応じなかった。また、それまでは料理が好きだったはま子さんは、料理に興味を失い、食卓には出来合いの惣菜やインスタント味噌汁などが並ぶようになった。
 6月26日から28日にかけて、親類や友人の葬儀が重なり、幹夫さんは葬儀に参加するため家を空けた。この間はま子さんはアパートにひとり残ることになった。3日間とも、幹夫さんがアパートに帰ると、はま子さんは「どうして早く帰ってこなかったの」と泣きじゃくって訴えたという。
 このころから、二人の間の会話も徐々になくなっていった。
 6月30日、幹夫さんははま子さんが「山木屋に帰りたい」と何度も言っていたので、草刈りもかねて山木屋の自宅に一泊することにした。
 アパートから山木屋の自宅に向かう途中、川俣町の『ファッションセンターしまむら』に立ち寄った。幹夫さんははま子さんの気晴らしになればいいと思い「何でも買っていいよ」と言った。ところがはま子さんは幹夫さんに買うものを選んで欲しいと言った。洋服店でそんなことを言われたのは初めてのことであった。自分で選ぶように言って、車に戻った。
 後になってわかったことだが、このときはま子さんは、色違いのまったく同じ服を6着購入していた。
 買い物を終えてから夫妻は山木屋の自宅に帰った。一泊の予定だったので、幹夫さんが「明日の午前中には帰る」と言うと、はま子さんは「ずっと残る」と言い出した。「あんた一人で帰ったら」と言うので、幹夫さんは「バカなこと言ってんでねえ」と言った。
 草刈りを終えてから、二人は山や木々など外の風景を一望できる廊下のソファで夕食を食べた。このときもはま子さんは「アパートには戻りたくない」と言った。
 その後、テレビを見ながら晩酌をし、就寝した。夜中に幹夫さんが目を覚ますと、はま子さんは横で泣きじゃくっており、幹夫さんの手をつかんで離さなかった。
 7月1日、幹夫さんは午前4時に起きて自宅周辺の草刈りをした。はま子さんはまだ眠っていた。
 午前5時半ごろ、自宅から50メートルほど離れたゴミ焼き場の近くに火柱を見かけた。幹夫さんが、はま子さんが起きてきて、古い布団でも燃やしているのだろうと思った。
 午前6時に草刈りを終え、午前7時ごろまで部屋でテレビを見ていた。はま子さんが起きてくる気配がないので家の中を探したが姿がない。家の周りを探したところ、はま子さんがゴミ焼き場近くに倒れているのを発見した。自らに火をつけた様子だった。
 幹夫さんは急いで119番通報をした。はま子さんは救急搬送されたが、すぐに死亡が確認された。死因はガソリン様の液体をかけて、自らに火をつけたという焼身自殺であった。遺書はなかった。
 弁護団は以上の経緯から、はま子さんが原発事故とそれに引き続く避難生活によりうつなどの精神疾患を発症し、その症状が悪化して自死にいたったと主張している。
 また夫の幹夫さんは、はま子さんの自殺の理由について次のように述べている。


自死に至った理由を私なりに考えてみたところ、磐梯町の町民体育館や福島市小倉町のアパートに居る間、妻は主に以下の点について何度も繰り返し不安を述べていた事を思い出します。
1.平成12年に建築した家のローンがあと1100万円(月々10万円の支払い)残っている。
2.川俣町での仕事を失って、やるべき仕事が全くない。
3.初めてのアパート暮らしになじめない。
4.それまであった近所、職場での付き合いがなくなってしまった。
5.同居していた長男、二男も別居してしまった。
また、6月30日、夫婦で就寝後に私が夜トイレに起きた時、同時に目覚めた妻が私の手を掴んで離さなかった事が強く印象に残っております」


 その日の公判では、被告・東電側の態度が問題になった。あくまで原告の専門家(医師)の意見が出てから反論するというのである。
 広田弁護士が舌鋒鋭く切り込んだ。
 むろん医師の意見書は出す予定になっているが、もし医師の意見書を出さない場合、東電は反論しないのか。そもそもこの裁判は、医学的な知見だけが100%を占めるのか。そうではないはずである。東電側は法律家としての見解を速やかに主張するべきである。そうでなければ裁判は長期化し、救済されるべき被害者の救済が、ずるずる引き延ばされてしまう。
 電話でも言っていたが、広田弁護士は何とか医療裁判に持ち込まれるのを阻止しようとしていた。
 この主張に対して、東電側はあくまでも医師の意見が出てから反論するという構えを崩さない。すると潮見直之裁判長はこう言った。
「もちろん医学的な知見、医学的な文献は双方に用意していただきますが、裁判所は医師が亡くなった人の診断ができるとは考えていません。すなわち、はま子さんがうつ病に罹患したことが、争点であるとは考えてはいません」
 あくまで医師の意見のこだわる東電側に、間接的に主張を述べるよう促す発言であった。
 
これはわれわれがやっていた裁判とはずいぶん様子が違うぞ、と僕は思った。
 JCO事故の時、事故が原因でPTSDになったと裁判所に訴えたのは母だけであった。僕は取材で他の事例も知っていたが、裁判所にしてみれば稀なケースであるから、医療上の厳密な審議が必要であると考えたのだろう。そこで、PTSDであるかどうかを争う医療裁判となっていった。
 一方で、福島第一原発の事故のあとでは自殺者が多発した。その大半がはま子さんと同じように避難のストレスによる自殺であった。さらに、潮見裁判長が言ったように、はま子さんはすでに亡くなっており、はま子さんがうつ病に罹患したかどうか争点にするのは事実上不可能である。だとすれば、より広い視座から、はま子さんの自殺の原因が原発事故であるか否かを判断することになる。
 公判が終わってから広田弁護士に挨拶し名刺を交換すると、
「あんたか」
と、ひとこと言って口元を緩めた。広田氏にとっても想い出に残る取材依頼であったようだ。

核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟(2)

2 
 
福島第一原発の事故以降、原子力事故の引き起こすこころの被害について取材している。原発事故の引き起こす恐怖や、避難のストレスで苦しむ人、命を落とす人が後を絶たない。
 東京新聞原発事故の避難やストレスによる体調悪化で死亡したケースを「原発関連死」と定義し、福島県内を取材、集計したところ789人に上った。しかし南相馬市いわき市は把握していないという。南相馬市の担当者の話から推定してそれを合わせると、福島県内の原発関連の死者は1000人を超えると見られる(2013年3月13日付)。
 先行きの見えない長期の避難生活。それまでの生活の核を失った日々の中で、鬱積するストレス。その中で発生するウツや自殺。これこそ原子力事故のこころの被害と呼ぶべきものであるが、事故以前に誰がこのような事態を予想しえたであろうか。
 かつて、名古屋で開かれた「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」で岡本道明氏(中部電力原子力部門課長)は「放射能の直接的な影響でなくなった方は一人もいらっしゃいません」と発言した。岡本氏の発言の真意がどこにあったかはわからないが、被災者のこころを踏みにじる発言であったことから、批判が噴出した。
 この発言があったのは2012年7月16日のことだったが、その翌日、僕はたまたま飯舘村で酪農を営んでいた長谷川健一さんを、伊達市内の仮設住宅でインタビューしていた。長谷川さんはJAそうま酪農部会のリーダー的存在であったが、酪農部会のメンバーの一人は「原発さえなければ」という言葉を残して自殺していた。また、長谷川さんの母親は避難のストレスから何度も病院に担ぎ込まれていた。長谷川さん自身も、家族同然に育てた牛12頭を屠畜しなければならないところまで追い込まれ「思えばあのときが、俺のストレスのピークだったね」と言った。
 岡本氏のこの発言について触れると、声のトーンが激しくなった。
「なんてことを言うんだ、と思ったね。放射能による直接の死者が出ないからいいのか。事故の被害を受けた当事者が、いったいどんな想いで生きていると思ってるんだ。とんでもないことを言う」
 まさに「想い」が問題なのである。
 原子力ムラでは、原発事故が起こったときの被害想定を行ってきた。しかしそこで考えられてきたのは、被曝による死者や発病者の推定であって、このように人のこころに与える影響は度外視されてきた。
しかし、現実はどうか。
岡本氏の言うように、放射能の直接的な原因で死んだ人がいないというなら、福島での1000人を超える「原発関連死」の原因は、いったい何だったのか。

 言わずもがなのことだが、人はこころを生きている。
 これまで取材してきて強く思うのは、原子力事故は人のこころを壊し、人と人の間を引き裂く、ということであった。
 僕はそれを「核という呪い」と名づけた。

核という呪い ブログ版 焼身自殺死訴訟

先日、福島の原発事故後に焼身自殺をした渡辺はま子さんの地裁判決が下り、裁判所は自殺と原発事故の因果関係を認め、原告側が勝訴した。画期的な判決であった。


昨年原告の渡辺さんのインタビューを行ったのだがボツになってパソコンの肥やしになっていたので、よい機会と思いこちらに載せることにした。


東京電力は事故被害者の負担を配慮し、控訴をするなどしてこれ以上の負担をご家族など関係者にかけないよう希望する。


                 1

「おたくらはね、いつもそうやって被害者の家族のプライバシーを暴きたてるんだよ」
電話の声はいきなり怒っていた。
この仕事をしていると時々こういうことがある。単に取材依頼の電話をしているだけなのだが、それがいとも簡単に相手の怒りの導火線に火をつけてしまうのだ。何が困るといって、怒っている人間からインタビューを取ることほど難しいことはない。
 2011年7月1日未明、避難先から計画的避難区域にある福島県伊達郡川俣町山木屋の自宅に帰っていた渡辺はま子さん(57)は、ガソリン様の液体をかけて自らに火をつけた。焼身自殺であった。
 なぜ、はま子さんは、焼身自殺という苛烈な手段を選ばなければならなかったのか。

2012年5月18日、夫の幹夫さんは妻の自殺は原発事故が原因であるとして、東電を相手に訴訟を起こした。電話口にいたのは、幹夫さんの担当弁護士である広田次男氏であった。
 おそらくメディア報道の殺到によって、渡辺さんのご家族に迷惑がかかるようなことが起こっていたのだろう。それは僕のような大きな組織に属さないフリーランスのライターにも容易に想像がつくことだった。そしてこの弁護士は情に厚く、正義感が強いので、事情を知りたいという僕を同類だと思い爆発してしまったのだ。同類といえば同類だが、向こうがシャムネコならこちらはノラネコであって、生活の安定度ははなはだしく異なっている。
困ってばかりもいられない。しかたなく、なぜ取材したいと思っているのかを電話で説明することになった。
 1999年のJCO臨界被曝事故で両親が被曝し、母がPTSDになったこと。JCOと交渉したが相手にされず訴訟を起こしたこと。この間、何度か母に自殺未遂があったこと。最高裁まで争ったが、結局「より蓋然性(確からしさ)の高い証明をしなければならない」という裁判所の判断で母のPTSDは認められなかったこと。そんな経緯があり、渡辺さんの死とこの裁判を他人事のようには思えないこと。
 後でわかったことだが、渡辺幹夫さんが裁判の準備をしていた時に、何らかの事情でそれが外部に漏れた。そのころ、渡辺さんの長男が職場の同僚から「母の死をいいことに、金取りにかかっている」と揶揄されたという。おそらくメディアのどこかから提訴の情報が漏れたのだろうが、聞くと次男も職場で同じような非難を浴びていたという。しばらくして、長男はその会社を退職してしまった。
 このようなことがあったため、広田弁護士はメディアに強い警戒感を抱いたのである。
 この話を知って、僕は二つのことを想い出していた。
 一つは、原子力ムラで訴訟を起こすとはどういうことか、ということである。
 後に触れるが、これだけの大きな事故が起きたにもかかわらず、福島の原子力ムラは原子力ムラであることをやめていないように思われる。そのような場所で、ムラの、すなわち東電の意に反し、裁判を起こすと何が起こるか。
 僕の両親が被害に遭い、訴訟を起こした東海村原子力ムラであった。「金がほしいんだろう」といったたぐいの揶揄が飛び交っていることは僕の耳にも入ってきていた。
僕の実家は東海第二原発から5キロも離れていないところにある。自分が育ってきた土地だから友人がたくさんいるし、親戚も東海村に住んでいる。いとこの一人は日本原子力開発機構で仕事をしているし、義弟は日立製作所原発を担当している。叔父は水戸市に住んでいたが、一時は原発の定期検査のために原子炉内で作業する被曝労働者であった。僕はいわば典型的な原子力ムラの地域住民なのである。
地元民だからいろんな噂が耳に入るし、盆暮れに親戚が集まると父母の体調悪化が事故の影響かどうかで議論が起こることもあった。父が死去した時には、激烈な原発反対運動を行っている人から、原発を保守運転している人、原発を作っている人までが葬儀の場で一堂に会してしまい、喪主挨拶をどうしたらいいのか四苦八苦した記憶もある。
そういえばJCO事故の数年後、地域の祭りに行ったら東電の人間がやってきて「JCOは小さい会社だからあんなつまらない事故を起こしたけど、原発は安全ですよ」と言われたこともあった。今思えば笑い話だが、JCO事故以降も、原子力ムラは安全神話の上にあぐらをかいていたのである。おそらくこの原発事故以降も「この新型の原発は安全です」とか「新原子力安全文化を作りましょう」といった新たな安全神話を吹聴する人間が出てくるだろう。「新」をつければ何とかなると思っている、声のでかい奴がたくさんいるのだ。
 いずれにせよ、そんな場所だから揶揄や流言蜚語が飛び交うことは覚悟していた。東海村の村上達也村長をはじめ、中には同情してくれる人もいたが、村の圧倒的多数は「無視」であった。
しかし、「無視」で良かったのだ。より深刻だったのは、裁判を起こす直前に、原告になる人たちに圧力をかけようとあらゆる筋から手が伸びてきたことだった。
 今、善良そうな一人の青年の顔が思い浮かぶ。
彼は東海村郵便局員で、JCO事故以降、激しい腸炎に悩まされていた。原因は事故以外に考えられない、と彼は言っていたし、訴訟への思いも強かった。親族会議で反対されたが、それでも意志は固かった。ところが、そのあと郵便局の先輩筋から「今後も自民党さんにはお世話になるんだから訴訟なんか起こすな」と言われ、「これからも一緒にやっていく人たちだし、職場でのゴタゴタにだけはつなげたくない」と考え直し、原告を降りることになってしまったのだ。
今回渡辺さんの二人の息子さんも原告になったが、トラブルがあったのはまさに同じような提訴直前の時期であった。あるいは同じような圧力がかかったのかもしれない。

もう一つ思ったのは、原子力事故におけるメディアの功罪、ということである。
原子力事故はたいてい前例がないので、メディアの知識には助けられる。僕が母親はPTSDではないかと最初に疑ったのもメディアの記事からだった。そこには健康診断で母を診断した筑波大の先生の「PTSDに近い症状に見える」というコメントが載っていた。結局それが専門医への受診につながり、母の症状は回復に向かった。おそらく福島の事故でも、メディアの情報によって救われた人は多いであろう。
しかし一方でメディアの社会は競争社会である。
提訴前にやはりどこかから父母の提訴が漏れたことがあった。それがある新聞の一面に載った。いわゆるスクープである。
するとその日の早朝、新聞各紙から我が家に電話がかかってきた。たまたまその日は家には母しかいなかった。電話に出るとすべて新聞社からのJCO事故と訴訟の話の確認である。記者からすればいわゆる「特オチ」というやつで、もし自社だけそのニュースが取れなければ担当している自分の責任になってしまい、横並び体質になっている記者クラブ制では最も忌み嫌われる事態に陥る。ノラの僕から見れば「他の取材でもやって、いい記事書きゃあいいじゃねえか」と思うのだが、悪平等がはびこる日本の組織メディアでは、そうもいかないらしい。
ところが母はJCO事故によるPTSDだから、JCOと聞いただけで症状が起こる。そんなのスクープ記事を読めば誰でもわかるはずだから、当然配慮すべきなのだが、日ごろ社会的正義を追及し、事故被害者のこころの被害を思いやっているはずのメディアの人間にそういう配慮はないらしい。ついに母は電話に出られなくなった。
すると恐るべきことに新聞記者たちは家まで乗り込んできてしまったのである。やはり自分たちの社会の掟が優先で、そこに社会的常識の入り込む余地はないらしい。母はパニック障害を起こし、2階の部屋に立てこもった。
おそらく、こうしたメディア側の理屈や競争原理の中で、はま子さんの遺族も翻弄されていったのだろう。

 取材の意図を話すと、電話の口調は一変した。広田弁護士は今取り組んでいることについて説明してくれた。
 訴訟を起こすためには訴状に約30万円分の印紙を貼らなければならない。しかし、訴訟を起こそうというのは原発事故で避難し、仕事も失ってしまった人間であって、困窮を極めている。自分はその免除を訴えているのだが裁判所がウンと言わない。しかし、自分は他にももう一件原発事故避難者の自殺案件を抱えていて、印紙の件に関しては譲れない。
「この件を突破しないと戦えないんだよ」。
つまりは、いまだ裁判以前の段階だったのである。
 母の裁判の結果を問われたので、最終的にPTSDは「より蓋然性の高い証明が必要だ」ということで認められなかった、と答えた、すると広田氏は「そうか。PTSDは難しいよ。医療裁判にしてしまうと難しいんだよな」と経験豊かな弁護士の口調になって言った。確かに、医療裁判になってしまうと、法の正義の問題が、医学上の瑣末な議論にすり替えられる。それは厄介な問題であった。

核という呪い ブログ版(7)(8)

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不思議なことはほかにもたくさんあった。たとえば、一番大きな症状が出ているのは臨界を終息させるために現場で作業したJCO社員のはずであった。しかし彼らは会社によって囲い込まれ、情報がまったく出てこない。
 ある時、被害者の会にやってきた女性が、村で出回っているという次のような噂を話してくれた。
東海村から出る特急ひたちに、JCOの幹部社員たちが乗り合わせていた。これはそこに同乗していた人の話で、東海駅を離れると、たぶん夕食時だったのだろう、彼らは弁当を食べながら軽く酒を飲んで同僚の噂話を始めた。それは事故の処理に当たった社員の一人だったが、会社の強い慰留にもかかわらず退職し、かねてから念願だったそば屋を開店した。開店して数ヶ月してから店を訪れると、珍しく頭にバンダナを巻いている。不審に思ってたずねると、「どういうわけか髪の毛が抜けちゃって」と言ったという。また数ヶ月して店を訪れたとき、話しかけてもなかなか答えないので不思議に思ってよく見ると、彼の口から何本もの歯が抜けていた、というのである。しかも、JCOの幹部たちはその話をしながら笑っていたというのだった。
この噂が事実であるかどうかは定かではないが、これは、東海村民が原子力産業の幹部たちに抱いているイメージをよく表している。
2002年、母は著名な精神科医である高橋紳吾医師にJCO事故によるPTSDだと診断され、その診断に沿った治療がなされたためか、急速に回復した。父は、自分の皮膚病の悪化についても専門家からJCO事故との関係を指摘されたため、夫婦の健康被害に対する補償を求めて、JCOに対して損害賠償の訴訟を起こした。
 父の裁判を手伝う過程で、僕は多くの原子力関係の裁判の例を知った。
たとえば、原子力産業が、被曝しながら原子炉を雑巾で掃除するような、原発労働者たちの過酷な仕事に支えられていることは広く知られている。
長尾光明さんは多年にわたり原発労働者として働いてきたが、1992年ごろから体調不良を感じるようになり、1998年に多発性骨髄腫と診断された。これは「骨のガン」として知られている病気で、進行すると病気の症状で骨が変形し、骨折してしまうこともある。長尾さんは原発での被曝しながらの仕事が原因ではないかと考え、労働災害の認定を求めた。
厚生労働省は専門家チームによる検討委員会を作り、被曝と病気との因果関係について慎重に審議した結果、2004年にこれを労働災害として認めた。
次に長尾さんは原発の経営者である東京電力を相手に訴訟を起こした。ガンを発病させてしまうような環境で仕事をさせている東京電力の責任を明らかにし、現在も原発で働く後輩たちの仕事の環境を少しでも良くしようとしたのだった。因果関係は厚生労働省も認めているため、裁判は長尾さんの出す条件を東電がどこまで認めるのかが焦点になると思われた。
ところが、裁判が始まると、長尾さんと東電の訴訟であるにもかかわらず、国、おそらく旧科学技術庁系のグループが、露骨に裁判に関与するようになったのである。自分たちの利害が危機にさらされていると考えたのだろう。そして、そもそも長尾さんの症状は多発性骨髄腫ではないのだという、明らかな暴論を主張し始めた。
ところが、科学系の研究費を握っている国のこのグループが裁判に関わり始めたせいなのか、各学派の権威たちが東電の主張を後押しし始めたのである。その結果、裁判所はこの暴論を全面的に認めてしまったのだ。
この結果は、同じように原子力問題の裁判を争っている人間としては、実に不気味に思えた。
だが、それどころか、殺人事件を隠蔽するような裁判すら起こっていることが、徐々に明らかになっていくのである。

                   (8)
これは新聞や週刊誌などでも取り上げられていたから、ご存知の方もいるだろう。
1995年12月8日に、動燃(当時)の高速増殖炉もんじゅで、ナトリウム漏れの事故が発生した。動燃は現場のビデオを公表したが、後にこれが編集されたものだということが発覚する。その後あまりにも虚偽報告や隠蔽工作が続いたので、動燃は当時の世論から激しい批判を受けることになる。これがいわゆる『もんじゅ事件』である。
そして、動燃が追加調査を約束した次の日に、社内調査の責任者であり、記者会見にも出席していた総務部次長・西村成生さん(49歳)が、宿泊先のホテル敷地内で倒れているのが発見されるのである。警察や動燃の発表から、メディアは「自殺」と報道した。
西村さんの死によってメディアの追求が終息に向かったことから、この死は動燃にとって、組織防衛のための生け贄のような役割を果たした。
 ところが、西村成生さんの死には不自然な点があまりに多かったのである。
 まず第一に、ホテルの8階からの飛び降りによる自殺、とされている点である。約30メートルの高さから飛び降りたのに、死体の損傷が実に少ないのである。
 さらに驚くべきことは、死亡時間の食い違いである。警察は死亡時刻は1月13日午前5時頃だと発表したが、遺体が収容された聖路加病院の医師が、午前6時50分に測定した深部体温は27度しかなかった。専門家によれば、深部体温がわずか二時間の間に10度も下がることは考えられず、死亡推定時刻は前日12日の午後10時から13日午前1時頃と推定されるというのである。ホテルへのチェックインは13日午前0時45分頃と報道されているのだが、その頃には西村さんはすでに死亡していたことになる。
 警察が自殺と発表しているためなのか、ホテルは宿泊名簿、チェックインの時刻の開示を拒否している。それどころか、自殺のダメを押したと言われている動燃のFAXがあるのだが、その着信の事実があったかどうかさえも開示を拒んでいるのである。
それだけでなく、西村さんの遺書とされているものにも、西村さん以外の人間の書き込みがあったり、動燃がその内容を歪曲してメディアに伝えたりと、あまりにも不審な点が多かった。
これらの点から、夫人の西村トシ子さんは真相を追究するための訴訟を起こした。ところが、裁判所は西村さんの主張をことごとく否定し、動燃と西村さんの死にはまったく関係がないとしたのである。
傍聴した一人が「なにがなんでも原子力を推進しようとする国の強い意志を感じる」と述べているが、あるいはこの素朴すぎる感想の中にこそ、この裁判の真実があるのかもしれなかった。


母のPTSDと 父の精神的肉体的被害を問う裁判も、この2例と同じような顛末をたどり、2010年に敗訴が確定した。
たとえば、母のPTSDなどは、診察した8人の医師が全員JCO事故によるPTSDに間違いないと述べているのに、裁判所はそれを否定したのである。根拠としたのは、母を一度も診察したことのない学界の権威の意見書であった。おそらく長尾さんのときと同様に、国の圧力がかかったのだろう。
八年間の裁判と敗訴のショックのためか、父は脳梗塞を起こし倒れた。そして2011年2月7日に死去した。
この原稿の校了直前の3月11日に東日本大震災があり、地震原発事故によってわが家はふたたび被災した。
そして改めて原子力事故が起こすすさまじいストレスを体験した。
今後、僕の父や母のような人間が無数に現れるだろう。国はJCO事故のときと同じように、健康被害を圧殺し続けるのだろうか。

核という呪い ブログ版(4)(5)(6)

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 僕の家では、まず母が倒れた。
 九月三十日、事故当日の深夜三時頃から(正確には十月一日午前三時)、母は激しい下痢に襲われた。どういう感じだったかを後で聞いたら「お腹の中のものがすべて出ていってしまう感じ」と言った。この激しい下痢は五日間続いた。同時に、口内炎も現れた。周辺住民の何人もが、事故後口内炎やのどの痛みを訴えている。
 一人息子であるので、僕はこの人のことを子供の頃からよく知っている。女性にありがちな便秘体質の人で、僕が大学生の頃、冷蔵庫に放置してあった牛乳を見て、「腐った牛乳でも飲んだら出るかしら」などと言った人である。従ってこの時、身近な人間ならばどんな異常なことが起こっているかをきちんと気づくべきだったのだ。
 この後大泉工業は再開されたが、あれほど働き者で仕事好きだった母が仕事に行こうとしなくなった。父は、工場の主戦力である母が動かないので少しボヤいたようだ。体調が悪いのだろうと思い、家族はあまりそのことに触れなかった。
 外から見ていると、母はひどい倦怠感に襲われているようで、体を動かすのがいかにもおっくうそうだった。たいていは、パジャマ姿のまま居間で横になっている。
 なぜ母は倒れているのか。
 JCO事故のせいだろうというのは一番初めに考えた。ところが、安全宣言が出されて以降、国は一貫して「今回の事故は健康に影響するようなものではない」というキャンペーンを張りつづけていた。被曝問題には全くシロウトであった大泉家には、それを否定する材料がなにもなかった。僕は東海村に設けられた何箇所かの相談窓口で専門家といわれる人に話を聞いたが、みんな「私は今回の事故の何倍も被曝しているけど、元気に働いてる」と言った。母は僕の報告を聞くと、
「これは被曝のせいじゃないのね」
と冷静に言った。
 では、なぜなのか。
 十月の末頃から、母は胃の痛みを訴えるようになった。 
 十一月のはじめに、僕の息子の運動会があった。孫の顔見たさにジジババたちが集まった。妻の父・つまり僕の義父は内科医で、母のホームドクターのような存在だった。義父は母があまりに痩せていたので驚いたようだ。食欲もほとんどないようだったから、当然と言えば当然だった。義父は、すぐ病院に顔を出すようにと言った。
 11月16日に、母に付き添って病院に行った。母は久しぶりに大嫌いな胃カメラを飲むことになった。僕も体質的に同じなのでよく分かるのだが、カメラを飲みこもうとしてもすぐ吐き気がこみ上げ、ゲーゲーやることになる。従って胃カメラを飲むという行為は、拷問に近いものだった。しかし、母は覚悟を決めていたようだった。
 僕は廊下のソファに座って待っていた。
 検査の結果が出ると、義父は「こりゃ監督不行き届きだったな」と言った。潰瘍が三カ所で活性化し、喀血寸前なので、すぐ入院して欲しい、と言う。
 母は十年ほど前にも胃潰瘍で入院したことがあった。それ以来、この病はなりを潜めていたのだが……。
 なぜ母の胃潰瘍はこれほど急速に進んだのだろう。国が言っているように被曝の影響でないとするなら、考えられるのは精神的なものだろう。原子力事故を身近に経験したというストレスが、母に重くのしかかっているのかもしれない。
 いずれにせよ、母が倒れていた原因は、この胃潰瘍の悪化によるものだということがハッキリした。原因が判れば、それを治療すればいいだけの話だ。
 十一月十八日から十二月五日まで、母は胃潰瘍の治療のため入院した。退院時に撮った胃カメラでは、潰瘍はほぼ消失していた。
 だが、退院後も、母の様子は入院前と変わらなかった。一日中、パジャマ姿のまま、寝たり起きたりの生活だった。
 これは、何なのだろう。
 胃潰瘍はほぼ完治している。尋ねても、胃に痛みはないという。
 母ののろのろとした動きを見ていた僕は、大学時代の友人のことを思い出した。うつ病になってしまったその友人の動きも、同じようにのろのろとして、生命感がなかった。
 ひょっとすると母もうつになっているのかもしれない。そう思った僕は、近所にある精神科を受診することをすすめた。母は精神科というものにかかったこともなく、かなり抵抗があるようだったが、他によい方法も見当たらない。
 病院に行ったのは、十二月十日のことだった。医師を前にすると、母はとりとめのない口調で、やらなければならない仕事がたくさんあって忙しいというのに、体が思うように動かず、仕事に行けないこと、食欲のないことなどを訴えた。はっきりと記憶にないのだが、JCO事故や被曝の状況説明などは僕がしたように思う。
 医師の診断は「うつ状態」というものだった。抗うつ剤と入眠剤が処方されたようだった。

 しかし、この診断も結果的には正しいものではなかったのだ。2002年6月に症状が明らかになるまでの2年9ヶ月の間、家族は母が何にこれほど苦しめられているのか模索することになる。

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 この間、国、特に原子力問題の監督官庁であった科学技術庁はどう動いていたのか。
 京都大学小出裕章氏らのグループが、報道で放射能汚染についての言及がないのを不思議に思って、十月三日に事故現場近くの歩道付近のヨモギの葉と土壌からサンプルを採取、翌4日に測定したところヨウ素131などの放射性物質を検出した。ところが、膨大なデータを持っているはずの科学技術庁からは何の発表もない。国がデータを出してきたのは、事故から20日以上も過ぎてからだった。
「私たちが一番初めだったのかといえば、実はそうでもなくて、原研は私たちよりも丸一日前に測定していたし、それでも科学技術庁はそれを握りつぶしていたのです」(「東海村ウラン加工施設での臨界事故を検証する!」小出裕章講演会報告書)
 科学技術庁は原研や核燃料サイクル機構が測定した膨大なデータを公開せず、秘匿していたのである。
 科学技術庁の打った手はそれだけではなかった。
 12月15日、突然のように科学技術庁は「原子力損害調査研究会」というものの中間報告を行った。これは、今回の事故の被害に対する賠償金の支払いについて、あらかじめ専門家を集めて基準を決めました、というものであった。しかしそれは、関係者の誰もが目をむくような内容だった。
 まず、東海村の農産物などで激しくなっていた「放射能汚染されているから買うな」という風評被害である。農家や農協の被害は激しく、結果的には、通常レベルの戻るまでは3年以上必要だった。ところが、科学技術庁は被害を1999年の10月と11月分、つまり2か月分しか認めなかったのである。冬には東海村名産のかんそう芋が売り出されるため、まさに翌月の12月から莫大な被害が予想されたのだが、それらはすべて無視された。
 健康被害については、被害を訴えた人間が「放射線または放射性核種による放射線障害であること」を立証した場合だけ認める、というものだった。中性子線被曝に関しては最先端の科学者でもわかっていないことが多いというのに、被曝した人間にそれを証明しろというのだった。実質的には不可能である。つまり健康被害については金を払うなと国がJCOに命じているのであった。
 また、このような大規模事故につきものの、PTSDやショックによるうつ状態など「心の被害」については「特段の事情がない限り認められない」として切り捨てている。
これらはなによりも、常に危険なイメージがつきまとう原子力産業が「安全」であり、地域住民に健康被害を与えていないのだと主張したいための措置であった。もし補償金を支払ってしまえば、日本の原子力産業が民間人に健康被害を出したことを自ら認めてしまう結果になる。それはこの産業の国際的な面子がつぶれるということでもあり、今後の原子力プラントの海外への輸出や、国内の原子力の推進にも大きく影響を及ぼすという判断があった。また、次の事故のことを考えた科学技術庁が、自分たちの傘下にあり天下り先でもある原子力関連の企業を、補償金の支払いによる弱体化から守ろうとするものでもあった。いつものことではあるが、官僚がもっとも心を砕く省益によって導き出されたもので、被害者を救済しようという視点はまるで欠如していた。
 結局のところ、もっともおそろしいのは霊などではなく、生きた人間なのだった。
 
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 次に体調の悪化を訴えたのは父だった。
 もともと父には「紅皮症」という皮膚病の持病があった。皮膚に赤い斑点ができ、痒くてたまらなくなるという病気だが、その症状がさらに悪化したのである。赤い斑点の下に黄色い膿のようなものがたまり、かゆくてたまらないというのだ。かゆみのせいで眠れず、十分な睡眠が取れない。結局この症状は完治せず、2年後の2001年3月、父は大泉工業を閉鎖することになる。
 しかし、体の不調を訴えているのは、何も僕の両親だけではなかった。
 JCOのもっとも近くで働いていた建設作業員は、事故発生を知らなかったのに、二人が同時に激しい頭痛を感じ、「頭が痛い」と言い合っていたという。異臭を感じた人。吐き気を感じた人や実際に吐いてしまった人。その日の夜から全身が熱くなり、翌日から全身を切り刻まれるような痛みに悩まされた人。やはり事故の夜から甲状腺障害やアレルギーが噴き出した人。体に赤い斑点や黒い斑点が出た人。全身のだるさ、のどの痛み、湿疹、食欲減退、鼻血、異常発汗など、書いていけばきりがない。
 父があるテレビ局の取材を受け、それが放映されたことをきっかけに、心身にただならぬことが起こっていると感じている人たちや、近くの幼稚園、小学校(現場から500メートル近辺)で被曝した子供たちを持つ母親たちが父の工場に集まるようになった。これがのちに「臨界事故被害者の会」になる。この名前には、国は無視しようとしているが、臨界事故には確かに被害者がいるのだ、という気持ちが込められていた。また、被曝させられた子供の健康を心配して、さらにたくさんの母親たちが集まるようになった。国や自治体に相談しても「健康には影響がない」という答えしか返ってこないため、彼女たちの不安はかえって強まるばかりだった。
 国は被曝した地元住民の不安に対処するために、茨城県に依頼して年に一度健康診断を行うと発表した。2000年の4月から5月にかけて行われた健康診断には、不安を抱えた多くの母親と子供たちがつめかけた。それは茨城県が行う健康診断だったが、どういうわけかそこに科学技術庁の官僚たちが現れた。母親たちはその時の様子を次のように書いている。

科学技術庁のスーツ姿の中年男性の言葉――
「隣町からなぜ東海村の会場に来たのですか?」(注・JCOが村外れにあるため、多くの隣町の子供が被曝した)
「どんな書類を見てきたのですか?」
「詳しい説明は受けてきたのですか?」
「今回の相談は不安な人のために、気休めのためにするものなのにどうしてこんなに集まるのか?」等等。
医師――
「99.8%絶対にガンにはかからないから、今回は見送って来年受けたらどうですか」
会場の受付担当者――
「○○小の児童がなぜ東海村に来るのですか」
「何人(相談)するんですか」
「子供は相談には連れてこなくても良かったんですよ」
「相談しないと診断が受けられないわけではないんですよ」
「来年もまたやるのに」
「子供の血液検査はしないのですか」という父兄の問いに対して――
「血液検査をするんですか? 子供が痛がるからしない人もいますよ。0.5ミリシーベルト以下の被曝ですから大丈夫ですよ」
「子供の血を採るのは体に良くないからやめたらどうですか」

これらの態度を目の当たりにした母親は次のように述べる。
「勿論、不安に対する説明と暖かい対応をしていただいた、という声もありましたが『高いところから突き落とされるように感じた』という声のほうが多かったです。
専門家として『血液検査は必要ない』という見解を持つにしても、現実に心配している母親に対しては、もっと品位ある態度で対応してほしかった」
 母親たちはあまりにも冷酷な彼らの態度に愕然とした。しかし僕にはむしろいぶかしい思いの方が強かった。
ここまで必死になって彼らが隠そうとしたものは、いったい何なのだろうか。

核という呪い ブログ版(2)(3)


                 (2)
 運が悪いことに、と言うべきだろうか、僕(筆者・大泉)の父と母が経営する小さな町工場が、JCOから約80メートルのところに建っていた。
 事故がおきた1999年9月30日、僕は東京・墨田区の事務所にいた。この月はマンガ家の水木しげると3週間ほどオーストラリアの先住民・アボリジニを訪ね、彼らの精霊(水木しげるに言わせれば妖怪)について取材する旅をしていた。因縁めくが、アボリジニたちと付き合ううちに、彼らの聖地であるカカドゥ国立公園のジャビルカが、関西電力に売るウラン採掘のために汚染されている、ということがわかった。彼らの必死の訴えを聞いて、これは日本の原子力産業にきちんと問題を突きつけんといかんな、などとえらそうなことを思いながら帰国したのである(詳細は『水木しげるの大冒険 精霊の楽園・オーストラリア』祥伝社)。
 日本に帰ると、井上陽水のライブレポートの仕事が待っていた。9月29日が全国ツアーの初日だった。ライブの取材が夜だったので、両親と同居している茨城の家には帰らず、東京の事務所に泊まった。翌30日は外向きの仕事がなかったので、はるかに締め切りから遅れている原稿を片付けるために、ぱっとしない気分でワープロに向かっていた。
 夕方の5時ごろだったと思う。珍しく妻から電話がかかってきた。というのも、彼女は夫があちらこちらほっつき歩くのに慣れているため、めったに自分からは電話をかけてこないからである。
「お父さんの工場の近くで放射能漏れの事故があったんだって。六国(国道六号)が通行止めになってるって」
放射能漏れの事故!? 何でそんなものが親父の工場の近くで起こるんだ。しかも国道が通行止めになってるって? どんなレベルの事故だ。
 次に反射的に思ったのは、5歳の一人息子のことだった。親父の工場と自宅は5キロも離れていないが、息子の通う保育園はさらに東海村よりにある。
 しかし息子は何事もなく保育園から帰宅していた。胸をなでおろした一方、事故の内容や規模によっては息子も病院に連れて行かなければ、と考えていた。いったいどのくらいの規模で放射能汚染が広がっているかわからないからだ。放射性物質はまったく目に見えない。目に見えないというのは実に厄介だった。
 午後7時過ぎ、自宅に電話する。妻の説明によると、いったん家に帰ってきた父と母は、被曝検査を受けるために東海村の舟石川コミュニティセンターに向かったという。そして午後10時、やっと父母がつかまった。
「ほら、うちの目の前にある大きい工場だよ。住友金属なんとかって書いてあったけど、まさかそんなもの扱ってるとは思わなかった」
 JCOの前身は、昭和55年に住友金属鉱山から独立した日本核燃料コンバージョンであり、実態的には住友金属鉱山の一部である。父は住友金属鉱山時代の看板を記憶していたのだろう。
 父の話では、午後四時過ぎに役場の人が来て、事故現場から350メートル以内の住民には避難要請が出ているので、舟石川コミュニティセンターに行くように言われたという。ところが父は、自宅は日立市にあるので、帰らせてくれと頼んだ。それなら警邏の警官に事情を話して通ってくれ、と言われ、午後五時過ぎに自宅に帰ってきた、と言うのである。
(なんでそのまま帰って来るんだよ)。電話のこちら側で僕は頭を抱えていた。核物質で汚染されている可能性のある人間や車が、検査も洗浄もせず家に帰ってきてしまったら、二次汚染が起きてしまうではないか。父は田舎の町工場のオヤジだからそういう知識がないのはやむをえないとして、どうして役場の人間や警察は検査もせずに汚染された人間を家に帰してしまったのか。
 このようにして、生活の中に目に見えない核物質が入り込むという、大泉家の不気味な日常が始まった。

               (3)
 コミュニティセンターというのは昔風にいえば公民館であるが、そこで何が行われていたかというと、サーベイメーターというものを使って住民がどのくらい被曝したかを測っていたのである。のちに僕はこの事故で被曝した何百人という人から話を聞くことになったのだが、ある人はこの時メーターの針が振り切れてしまったのだと言った。
「それで、隔離されたんですか」
「係の人が話を聞きにいって、帰ってきたら『上着をビニール袋に入れて、焼くか洗濯すれば大丈夫、心配ありません』と言われて……」
 どのくらい汚染されているのか、その上限もわかっていないのに、「洗えばOK」としてしまったのである。信じられない話だが、事実である。しかも、こういう経験をしたのは一人や二人ではない。
 事故当時68歳だった寺門博さんの場合、そういう検査をしているとわかったのが事故の二日後の10月2日だった。仕事は大工さんで、事故当日はJCOから約700メートルの地点で終日屋根に上って作業していた。
この人は事故の翌日から極度の体調不良におちいった。吐き気がひどく、起きるとふらふらする上に、涙が止まらない。のどの調子も悪かった。
当日着ていた作業衣を持っていくと、メーターの針はいったん大きく触れた後、ほぼ中央で止まった。これが事故当日だったらどうだったのか。
担当者は「何度か洗ってすすげば大丈夫です」と言っただけだった。そんな服は気持ちが悪く、捨てるしかなかった。
さらに二日後の10月4日、茨城県による健康診断を受けた。
通常、被曝すれば骨髄機能が抑制され、白血球値や赤血球値が減少し、ヘモグロビンが低下して貧血を起こす。寺門さんは十年以上にわたって毎年血液検査をしていたので、自分の平常値を良く知っていた。白血球値は6500/mm³前後、赤血球値4500/mm³前後、血中ヘモグロビン量14g/dl前後だった。
ところが、このときの結果は、白血球値が4900/mm³、赤血球値が3810/mm³、血中ヘモグロビン量は11.8g/dlだった。血中ヘモグロビン量のところには「要医療」のマークがついていた。おそらく、彼はこのとき軽い貧血状態で、そのために起きるとふらふらしたのだろう。この状態はおよそ2週間続いたという。
ところが、茨城県から送られてきた検診結果の通知表には、「放射線関係項目の異常はありませんでした」と記入されていた。それを見たかかりつけの医者はあきれ「これはおかしい」と言った。
事故後体調異常を訴えた人は寺門さんだけではない。たとえば、寺門さんが屋根に上がって作業していた日、その家にいてお茶出しをしていた主婦も深刻な体調不良を訴えていた。
JCO周辺住民221人の健康実態調査を行った阪南中央病院によれば、有効回答数208名のうち、およそ100名の人たちが何らかの身体の不調を訴えている。
しかし、事故関係の健康診断では「JCO事故による住民の健康への影響は発見されなかった」と記者発表されるのが通例となった。実際、僕自身あちらこちらの健康相談所に行ったが、窓口の医師に「健康への影響はありませんから安心してください」と言われるのが常だった。
そこに、目に見えない大きな力が働いているのは、あまりにも明らかだった。