オタクはなぜ「押さえておく」ことを求めるのか

前回の続き。
例えばあまり興味のないジャンルのアニメでも一応第一回は見ておくとか、当面見る予定はないけれども来るべき時のためにDVDを買い込んでおくとか、この取材を始めてみて気づいたことの一つは「オタクは押さえておきたがる」ということでした。そのために、明らかに生活を逼迫しかねない金を使っています。なぜそのようなことをするのか、というのが、やはり僕には謎でした。


前述の浅羽の論文の中で、彼はオタクの成立を、地域共同体が崩壊した後到来した学校化社会に求めます。学校化されたコミュニティーではすべての知識は「ペーパーテストの正解として等価」であり、「科学法則も公式も文学も思想も芸術も歴史も、善悪・美醜といった価値観抜きで、ただ正誤によってのみ判断される情報の羅列と化す」。このようなコミュニティーで育ったオタクがサブカルチャーに向かう時の視点は、学校秀才の視点と似ていると浅羽は考えます。彼らは「あるジャンルの情報のすべてが等距離に俯瞰できる位置に自らのスタンスを定め、脱価値的態度を気取る」ために、どうしても情報を「押さえる」「フォローする」必要が生じてくるわけです。浅羽は同様の態度をとる人間として「評論家」をあげています。


多くのオタクが評論家的であることは、このような事情から説明できるかもしれません。


もちろん「オタクはなぜ押さえておきたがるのか」という問いに対して別な説明も十分可能だと思いますが、1980年代の終わりに用意されたオタク論としては、かなり長い射程を持っているのではないかと感じました。


浅羽はさらにこう続けます。
「このスタンスは、要するに「傍観者」の立場である。それはよく言えば冷静で中立的で客観的であるが、また冷笑的で没価値的で無責任でもある。」


そして、オタクのパロディーがこのような情報へのさめたスタンスからもたらされているとし、その例として「愛国戦隊大日本」を提示します。